2010年02月28日

「ハートキャッチプリキュア!」第4話で「親友」となった、つぼみさんとえりかさんの関係について


東映アニメーション制作のプリキュアシリーズ
最新作「ハートキャッチプリキュア!」について
は、これまでTwitterの方だけで呟いてきた
んですけど、開始から1ヵ月経過ということで、
少しだけブログの方でも、個人的意見をまと
めておきたいと思います。

「ハートキャッチプリキュア!」
・東映公式サイト
http://www.toei-anim.co.jp/tv/hc_precure/index.html
・朝日放送公式サイト
http://asahi.co.jp/precure/


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今日放送された第4話は、「早くもプリキュア
コンビ解散ですか?」というタイトルからも、
プリキュアになったつぼみさんとえりかさんの
友情の亀裂、あるいはケンカ話になるのでは、
という予想はありました。
実際にはケンカなどとは全く違い、自分の力不
足をふがいなく思ったつぼみさんが、プリキュア
の立場から身を引いてしまいそうになる、という
お話でした。


そして結局2人がお互いの必要性を認め合った
ことで初めて、2人同時の変身シーンが描かれ
るわけですが、そういう、2人がついに、つぼみ
さんとえりかさんだからこその、「ふたりはプリキ
ュア」状態に至るには、もっとドラマの積み重ね
があった方がいいかもとは、一瞬思いもしました。
そういう考えが浮かぶ理由のひとつには、初代
のなぎささんとほのかさんの2人が、やっとプリ
キュア同士というだけではない、親友状態に至
るまでには、第8話までを費やしたという過去が
あるからだとは思います。


初代以降のシリーズに対する批判の論法のひ
とつとして、「初代は、最初は他人だった2人が
名前で呼び合い親友になるまで8話も費やし、
その第8話の出来も最高だったのに、それに対
して……」という論理展開をよく目にします。
でも個人的には、初代のシリーズ構成をそこまで
神聖視する必要もないとも思います。
初代のなぎささんとほのかさんと、「ハートキャッ
チ」のつぼみさんとえりかさんは、それぞれ違う
個人であり、違う個人の組み合わせなのだから、
親友になるまでの期間も過程も違っていて、当
然です。


例えば、初代に続く「Splash☆Star」の咲さんと
舞さんの場合は、2話くらいで、もうお互いを名前
で呼び合うようになりましたが、この2人はシリー
ズの中でも飛びぬけて素直な心根の優等生だっ
たので、プリキュアという、世界で自分達2人だけ
しかいない立場になったお互いをすぐに受け入
れ合い、名前で呼び合うことに、個人的には特に
違和感を覚えませんでした。
この2人なら、こういう関係にすぐなって自然だろ
うというキャラ構築が、第2話までに、きちんと出
来ていたんですね。


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では、「ハートキャッチ」の場合、第4話で2人が
親友であることを認めた展開を個人的にどう思っ
たかというと――。
言葉それ自体が先走っている感もあるのは認め
た上で、2人とも、まだまだ人間としての伸び白が
多いからこそ、むしろこれから、そういう「親友」と
いう言葉を実際の絆として、どうやって埋めていく
のかという期待でいっぱいになりました。
初代の時は、「プリキュア」という作品・設定自体が
初めてということもあって、作中のなぎささんとほの
かさんも、プリキュアとしての自分達の立場と、パー
トナーとしてのお互いの存在を、それぞれ合わせて
考えなくてはならず、それなりの時間は必要だった
でしょうし、実際にその時間を費やしてくれたのは、
良心的なシリーズ構成だったと思います。


けれど、シリーズを重ねて五代目(七作目)になる
「ハートキャッチ」で大きく異なるのは、視聴者側
からのシリーズに対する認知構築に加えて、作
品内設定としても、プリキュアがつぼみさんとえり
かさんの2人だけではないという認知が早々にさ
れていることですね。
特にブロッサム=つぼみさんの場合は、他でもな
い祖母の薫子さんが元プリキュアですから、今回
のように、プリキュアだからこその悩みも吐露出
来るし、頼ることも出来る。
プリキュアとは何をすべき存在なのか、考え探求
する時間を大きく費やす必要はとりあえずないの
だから、親友としての関係を構築する時間が初代
より早くなっても、おかしくないと思います。
この第4話で、マリン=えりかさんが「好き」とブロ
ッサム=つぼみさんに伝えたのなら、それが現時
点での、彼女の気持ちの素直な現われだと受け
とめてあげたいと思いました。


だから、今後の物語的ターニング・ポイントは、
第1&2話のえりかさんとは逆に、つぼみさんが
こころの花を抜かれてしまう時かもですね。
えりかさんの時は、つぼみさんにとって彼女はま
だ知り合ったばかりのクラスメートで、デザトリア
ンが叫ぶ心の声の中身も、まだ他人事だったと
思います。
でも、これからもし、つぼみさんがこころの花を
抜かれてしまうとしたら、えりかさんにとっては親
友で、世界に1人しかいないプリキュアとしてのパ
ートナーの、心の声を聞かされてしまうことになる
わけです。
その時に、つぼみさんの心が何を叫んでしまうのか。
それを聞いたえりかさんが、どう反応するのか。
実はその時こそが、2人が本当の「親友」になる
瞬間かもしれませんね。期待しています。


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2010年02月26日

「機動戦士ガンダムUC(ユニコーン)」第1話が示した魅力について


というわけで、週末で混んでしまう前にと、
大阪・なんばパークスシネマで上映中の
「機動戦士ガンダムUC(ユニコーン)」第1話
を観てきました。
経済的には厳しい状態なんですが、特別価
格で電車賃がチャラになるくらいだったので、
思い切って。

「機動戦士ガンダムUC」公式サイト
http://www.gundam-unicorn.net/index.html


自分はもう、作家論・スタッフ論でアニメを見
るスタンスからは撤退して久しいので、今回の
「UC」も、監督さんが誰とかは一切知らずに
見てみたんですが、そうですね、1時間たっぷ
りかけて、主人公が戦争によってガンダムに
乗って戦う運命に巻き込まれていくという、
「ガンダムの第1話」を見せてもらった充実感
で、まずはいっぱいですね。
それは、語り口に駆け足なところはあるし、
オードリーさんに眼前で「必要ない」と断言さ
れたにもかかわらず(されたからこそ?)、「女
の子に必要として欲しいから頑張る」という主
人公・バナージ・リンクス君の行動は、物語と
してどう方向性を生むのかとか、不安もなくは
ないですけど、それはこれからの問題です。
このクオリティの作品があと5話・5時間も見
られるんだ、という嬉しさがあります。


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それから、「UC」が「宇宙世紀」を舞台にした
ガンダムだからこそ、という点も大きいです。
この台詞・設定は、宇宙世紀ガンダムを知って
いる人には分かる的な、ファンに対するくすぐ
りも豊富でしたけど、語り口において重要なの
は、宇宙世紀を舞台にしてるからこそ、出来る
ことが制限されているという、逆説的な魅力で
しょうか。


この「UC」の物語は、宇宙世紀ガンダムの作品
歴史でいうと、アニメ作品に限れば、「機動戦士
ガンダム 逆襲のシャア」(宇宙世紀0093年)と、
「機動戦士ガンダムF91」(宇宙世紀0123年)の
間に位置する(宇宙世紀0096年)わけですよね。
というか、3年後という時間を考えれば、「逆襲の
シャア」のその後を描いた作品という言い方が
正しいかもです。
英語の台詞では、「逆襲のシャア」で初登場し、
その後のガンダム作品では、応用技術を除いて
言及されなくなる設定の「サイコフレーム」も、
実装備として登場していましたし。


逆に言うとつまり、この「UC」は、「逆襲のシャア」
の3年後という世界で起き得ることしか描けない、
ということですね。
キャラクターの所在や、地球連邦の治世体制、政
治思想の流れもそうですし、モビルスーツの性能
や装備も、この時代にまだなかった物が出てきて
はいけない。
そういう、制限された状況下にあるからこそ、ジ
オニズムやニュータイプに対する人々の考え、
「この時代ならMS戦はこうなるだろう」といった、
こだわりにも説得力の世界観的根拠が発生し、
リアリティが物語に備わるわけですね。


例えば、そういう物語歴史的制約が強く存在し
ない、別世界のガンダム・シリーズである「機動
戦士ガンダムSEED DESTINY」には、戦術や
戦力比のリアリティを超えて、単機で大部隊を一
掃出来るスーパーMS、ストライクフリーダムガン
ダムが大活躍していました。
搭乗者であるキラ・ヤマト君の能力も含めて、
ある意味破天荒な、「SEED」シリーズの世界観
には合っていたかもしれませんが、あそこまで
の無敵ぶりを一機のMSが宇宙世紀の戦場で
発揮したら、おそらく物語世界が速攻で破綻す
ると思います。


「UC」第1話の場合は、そんな破綻が容易に
は生じないくらいの、語り口の構造の堅固さが、
明確に見えたと思います。
ああ、この作品はこういう「枠」で語っていくんだ
なということが、よくわかりましたし、宇宙世紀ガ
ンダムを知っている自分としては、安心以上に、
そのことが嬉しかったんですね。
舞台こそ宇宙ですが、ちゃんと地に足が着いて
いる感があって。
初代ガンダムから30年を経ても、宇宙世紀の物
語が描き得るという事実にこそ、個人的には満足
出来た劇場体験でした。
「SEED」シリーズや「00」しか知らない世代の人
達は、「UC」をどう感じているでしょうか。


posted by mikikazu at 14:49 | TrackBack(0) | アニメ感想-いろいろ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月02日

「フレッシュプリキュア!」への個人的不満点。


今週になって、4人目のプリキュア=キュアパッシ
ョンと、新作劇場映画「フレッシュプリキュア! お
もちゃの国は秘密がいっぱい!?」
についての情報
が公式に解禁された、「フレッシュプリキュア!」
(公式サイト)については、最新エピソードである、
第21話「4人目のプリキュアはあんさんや!!」まで
は、一応見ています。
ここしばらくは、シリーズ中盤クライマックスという
ことで、連作エピソードが続いていますね。


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個人的には、この「フレッシュ」、前シリーズの「5」
二部作への思い入れが強過ぎるから、ということ
を第一の理由として、まず認めはしますけれど、
作品評価としては、正直どうかな?という感じです。
いくつかありますが、作品側の原因として一番大き
いのは、プリキュアが、ラブ・美希・祈里の3人であ
る理由が、ドラマとしていまだに構築出来ていない
から、でしょうか。
今回のプリキュアは、初めての、最初からの3人編
成ですが、続編作品を除くこれまでのシリーズとは
異なり、プリキュアになる女の子達は、物語が始ま
る時点で、既に親友としての関係性を築いています。
プリキュアとしての自分を認めていくことが、同じプ
リキュアである、他の仲間達との絆を深めていくこ
とに繋がっていた他作と違い、後者の要素は省か
れているわけですね。
だから、プリキュアとしての運命を共にすることは、
そもそもが親友同士である3人にとっては、拒否す
る必要もないことであるわけですが、残念ながら、
それはあくまでキャラクターの側だけが、わかって
いる設定でしかなく、生きているドラマとしては、
見ているこちら側に伝わっていない、という不満が、
僕には強くあります。
どうして今回のプリキュアがこの3人なのか、とい
うことが、いまだにわからないんですね。


3人であるならば、ラブさんにとっての美希さん・
祈里さん、美希さんにとってのラブさん・祈里さん、
祈里さんにとってのラブさん・美希さんといった、
それぞれの関係性への視点があって然るべきだ
と思うのですが、物語も半ば近い現時点までで、
それが十分に描かれているとは、あまり思いません。
誰かに個人的な物語が与えられても、他の2人は
文字通り合わせての、「その他2人」に立場が後退
してしまい、本来ならば個人としてそれぞれ違う筈の、
親友に対する思いや気持ちが無視されてしまってい
ると、感じることがとても多いです。
ラブさんに何かが起きた時に、美希さんならこう思う、
祈里さんならこう感じるといった差異化を行ってくれ
ないので、せっかくのトリオとしてのケミストリーが
発生していないと思います。そういった複数の視点を
描くには、ドラマ本編の尺があまりに短過ぎるのも事
実ですが(4人になったら、もっと難しいでしょうね)。


第9話がそういう、「3人そろってこそのプリキュア」
を確認する話にはされていて、ラブさんと祈里さんの、
美希さんの判断に対する物分りのよさを、優等生と
感じるか、あっさりし過ぎると感じるか、ですね。
例えば祈里さんからの、ラブさんと合わせてではない、
美希さんへの個人的気持ちを、もっと深く知りたかっ
たです。
ケンカして絆が深まるようなお話は、過去のシリー
ズでもやったことだから、あえてこの「フレッシュ」で
繰り返す必要はない、やらないのが「フレッシュ」独
自の作品カラーである、ということでしょうか?
何故この3人だからプリキュアなのか、という問い
への答えを明確にしておかないと、4人目のプリキ
ュア=キュアパッションが加入した時に、ではこの
4人でプリキュアをやるとは、どういうことなのか、
3人では出来なくて、4人では出来ることとは、なん
なのかというドラマも、展開出来ないと思います。



ちなみに、4人目のプリキュアが誰なのかというこ
とについては、僕もまだ知らないというか、本編で
確認したいので、ネタバレ回避頑張ってます。
本命は東せつな=イースさんなんでしょうけど、せ
つなさんは別に変身しなくても、ウェスターさんや
サウラーさんをボッコボコに出来るくらい強いので
(映像資料)、どうかな? (←プリキュアとWWE、
両方のファンを一緒にやってる人は、日本に何人い
ます?)
あのスタイルで、イースさんの毒舌性格をそのまま
維持するわけもないでしょうから(あ、それも見たい
かも)、一度記憶喪失にでもなります? そうして、
いずれ記憶を取り戻した時に、かつてはプリキュア
の敵であった自分を知って悩むとか……。


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「Yes!プリキュア5GoGo」の、かれん×くるみファン
小説は、やっと手書きの下書きが終わりました。
これからキーボードで推敲していって、週末で仕上が
ればいいかな、くらいの感じですね。やっぱり、つい
「ごきげんよう」とか挨拶しそうになるので困ります(笑)。

posted by mikikazu at 11:29 | TrackBack(0) | アニメ感想-いろいろ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月22日

読んでるもの見てるもの。


今ちょっと目を通しているのが、SF作家山本弘さ
ん(公式サイト)の短編集「審判の日」(角川書店)と、
連作短編集「MM9」(東京創元社)の二冊です。
短編集「まだ見ぬ冬の悲しみも」(早川書房)もあ
ります。


妹にするとかならないとかいった、個人対個人の
ミニマムな物語世界から、日本や地球、それこそ
宇宙全体の運命まで語ってしまうスケールの大き
なSF世界への移行は、読む側の振り幅としては、
極端でいいかなとも思って、手に取ってみました。
僕は昨今の日本SF小説界には全く疎いので、山
本さんの地位というか、SF作家としての評価みた
いなものは全然知りませんが、どちらもエンターテ
インメントとして、面白く読めています。
特に「審判の日」の方は、世界構造レベルで、暗く
絶望的なお話ばかりなので、結構クラクラきて、
読書体験としてはいいものです。
こういう風に、読む側の価値観とか、世界認識を
揺さぶってこそ、SFだと思います。


また同書収録の同題作品は、小松左京さんの、あ
る初期作品と同じ世界状況だと、思い出したりもし
ました。
別にパクリとかそういうことではなくて(SFでは有
名なテーマです。最近も、某ハリウッド映画であり
ましたし)、その状況を、携帯電話とかインターネッ
トが存在する、現在の世界で描いたらこうなるとい
う面白みも感じたんですね。
小松左京さんのその作品の最初のシーンは、公衆
電話が鳴っている、というものだったと思いますが、
どんどん街中から公衆電話が撤去されている現在
だと、逆にリアルじゃないと受けとめられる可能性も
あるでしょうし。
「MM9」の方も、ウルトラマンがいなくて、攻撃力も
持たない科特隊が、現在活動するとしたら、という
ひとつの思考実験として、面白いです。
あ、第2話「危険!少女逃亡中」なんかは、ホント
に小説じゃないとやれないネタですよね(笑)。


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「エル・カザド」(公式サイト)も、引き続き第17話「追
い詰める女」を見てみました。
あれですね、夫婦漫才といえば、ブルーアイズさんと
部下その1さんのやり取りも、それなりに発展しつつ
あるような(笑)。
そしてラストでは、組織を離れて、個人の立場で最終
決戦に向かうブルーアイズさんに、ついに部下さんが
サングラスを外し素顔を見せて、「私にも、お供させて
ください――、ジョディお姉さま!」という風になるわけ
ですね。←もう毒され過ぎですっ
本編内容について評価すべき点は特にありませんが
(そちらのぎゅうっとな寸劇の方が、ずっと好きです。
リリオちゃんと夜更かししてお喋りしてたというエリス
ちゃんも微笑ましいですし)、ナディさんって、ホントに
腕利きの賞金稼ぎなのかなーという詰めの甘さは相
変わらずで、結構心配にもなってきたり(笑)。


そうそう、前話の寸劇では、「かなめも」(石見翔子 
芳文社)も連想しちゃったんですけど、雑草サラダって、
わりに一般的な料理みたいですね?
とりあえず、日焼け止めはしっかりと、ですか。こっちは、
夏を乗り切れなくても、それはそれでもういいやって感
じです(笑)。

posted by mikikazu at 08:46 | TrackBack(0) | アニメ感想-いろいろ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月21日

「エル・カザド」第16話、見ましたけど……。


こちらでも、「エル・カザド」(公式サイト)は、第16話
「怒る女」を見てみましたが、作品に対する戸惑いと
いう意味では、前話よりこちらの方が大きかったかも
ですね。


アミーゴ・タコスのネタは、さすがにもういいと思いま
すし、前話で、ずっとエリスのそばにいると決意した
ナディさんが、結果としてとはいえ、エリスを1人に
してピンチに陥らせるという展開の緊張感のなさが、
よくわかりません。店長さんは、どれだけ遠い、ある
いは混んだ銀行に行ってるんですかっていう(笑)。
そういう風なツッコミをあえて想定したりとか、人間
感情のリアリズムや、プロットの論理性にこだわらな
い作品作りというのも、もちろんありだとは思います
けど、根本にシリアスな設定がある筈の、この「エル・
カザド」が、シリーズの後半に入ってやるべきお話だ
ったかというと、こちらの期待からすれば、残念な内
容だったでしょうか。
あ、ブルーアイズさんの部下さんについては、ただ付
き従うだけじゃなくて、わりに自立した意見も述べる
人みたいなので、名前も知りませんけど、あるいは
ういう
秘めた思いを備えていた、という展開も面白そ
うですね。ブルーアイズさんの物語にも、落としどこ
ろは必要でしょうし。
とりあえず、ナディさんとエリスちゃんのラブラブな寸
劇は、あるいは本編より(!?)いつも楽しみにしています。
今回もそうですが、エリスちゃんからの、本編よりずっ
と積極的なベタベタが微笑ましいなあって。


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そろそろこちらでも、最高気温が30℃超えの日ばか
りが続くようになってきて、早くもグッタリしています。
疲れが抜けないまま次の日になって、毎日が続いて
いく感じで、更新の元気もなかなか……。
無理しない程度に体調には気をつけて欲しいですが、
時々はそちらの言葉を読めると、とても嬉しいですし、
こちらも頑張れます。出来る範囲で、ですけど(笑)。

posted by mikikazu at 08:06 | TrackBack(0) | アニメ感想-いろいろ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月14日

「エル・カザド」は第14話まで見ました。


まず先に。
昨日亡くなられました、プロレスリング・ノアの
三沢光晴さんのご冥福を、心からお祈りします。
僕個人は、この4、5年間というもの、プロレスは
もうWWEしかチェックしていなくて、日本のプロ
レス界についてはすっかり疎くなっているのです
けど、それでも、今回の三沢さんのことは、F1で
94年にアイルトン・セナ選手が亡くなった時と同
じくらいの衝撃が日本であるとは、わかります……。


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お休みの2日目ということで、「エル・カザド」(
式サイト
)は、こちらも第14話「メイプルリーフ」ま
で見てみました。
ちょうど折り返し地点を過ぎて、この第14話では、
エリスの過去もきちんと説明されましたが、総論
的にいうと、わかりやすく楽しめるお話をやって
くれていると思います。変に難しくしていないって
いうか。
今後はナディとエリスの絆の物語を軸に見ていけ
ばいいという素地が、前半できちんと構築された
と思います。2人が触れ合うたびに、守るべき温
かさみたいなものを感じ取れます。
だからこそひとつ苦言を呈すなら、単なる仕事を
超えて、エリスを命に代えても守るというナディ
さんの決意は、台詞じゃなくて、行動で見せても
らいたかったところですね。
次話のサブタイトル「逆らう女」が、その辺を指し
ているのかもしれませんが……。
ナレーションも含めて説明過多なのは、語り口の
スタイルなんでしょうけど、好き嫌いが分かれそ
うですね。個人的には、ナレーションは要らない
派ですが。


大枠の話も色々動いているようですけど、主役の
ナディさんが、現状ではそこそこ腕のいい賞金稼
ぎ以上の行動力も情報網も持ち備えていない立
場から、命に代えても守りたいエリスのために、
どれだけ能動的に変わっていくかが、個人的な
期待でしょうか。
申し訳ないですけど、今のナディさんでは、とても
事態を打破出来そうにないし、エリスちゃんをずっ
と守り続けることも無理そうです。
仲間が増える可能性もありますけど、根本的な部
分での、ナディさんの変化を、もっと色々見てみた
いなと思います。
ナディさんも枯れた部分のあるキャラですが、エリ
スの設定にこれ以上の裏がないとするのなら、次
はやはりナディさんの側の物語を深くやって欲しい
わけです。
単なるエリスの保護者・ガーディアンとして以上の
立場に、ナディさんが立てるのなら、「エル・カザド」
も作品として、もうひとつステージが上がると思うん
ですね。
母として、姉として、あるいはパートナーとして――、
色々描きようはあるでしょう。楽しみです。


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とりあえず昨日届いたのが――、

「アオイシロ−花影抄−」第2&3巻
 (片瀬優 ジャイブ)
「異国迷路のクロワーゼ」第1&2巻
 (武田日向 富士見書房)
「あかりをください」
 (紺野キタ ソニー・マガジンズ)
「プアプアLIPS」
 (後藤羽矢子 竹書房)
「ゆゆ式」第1巻
 (三上小又 芳文社)
「かなめも」第1巻
 (石見翔子 芳文社)
「わさびアラモードっ!!」第1〜3巻
 (もみじ真魚 芳文社)
「天然あるみにゅーむ!」第1巻
 (こむそう 芳文社)
「少女美学」
 (CHI-RAN 一迅社)
「絶対浪漫」
 (むっちりむうにい 一迅社)

などになります。今回はジャンル傾向を絞ってみ
ました。
「アオイシロ−花影抄−」や「異国迷路のクロワー
ゼ」についてはりょうさんからのご紹介ですが、そ
れ以外の作品については、サイト「BLND」のみや
きちさんによるレビューも参考にさせていただきま
した。ありがとうございます。

posted by mikikazu at 09:12 | TrackBack(0) | アニメ感想-いろいろ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月22日

アニメ版「かんなぎ」は、第六幕を見ました。


話の流れということで、昨日CSのアニメ専門局
アニマックスで、ちょうど放送していたアニメ版
「かんなぎ」(公式サイト)のエピソードを見てみま
した。
放送されていたのは、第六幕「ナギたんのドキド
キクレイジー」で、まあ、よりにもよってこのエピソ
ードですかという気はしますけど(笑)、タイミング
とはそういうものです。
なにより放送当時は、「その2人がそこにいてい
いんですか!?」と大騒ぎになったお話だったろうと
も想像します。勇気あるなあ。


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そうですね、とりあえず声優さん達は、みんなイメ
ージから外れていなかったので、安心しました。
でもアニメ版で一番可愛くなったのは、やはり仁君
なんでしょうね。原作よりも、もっと小さくなった感
じで。
アニメ化としての必然なんでしょうけれど、カメラ位
置が固定され、背景の描き込みが増えたことによ
り、キャラクターの立ち姿がよりリアルに感じられる
ので、原作ではちょっとわかりづらかった、仁君の
小柄さが明確になっています。大鉄君との身長差
もそうで、2人の関係性を示すには、より効果的だ
と思います。
あと秋葉巡君も、ハンサム声でよかったなあとか(笑)。


ほぼ原作そのままのアニメ化ですけど、追加演出と
いうことで得をしていたのは、つぐみさんですね。
得というには、少々切ない立場ばかりでしたけど。
原作にはなかった、仁君からナギさんへの告白に対
して、あえて視線を向けない反応とか、その後の無
人になったテーブルの片付けとか、細かいところで、
仁君への気持ちを示す演出が加えられていて、この
お話だけだと、つぐみさん贔屓になってしまいそうで
すね。


OPとEDは……個人的には、逆の方がよかったかも。
ダンスのインパクトはわかりますけれど、「しっとり」
の要素の方を、僕はよりアニメ版には期待していた
ので。
ともあれ全体的には、問題のないクオリティに達し
ているアニメ化だと思います。
残念ながらこのアニメ版は、物語の本筋が始まる、
という辺りで終了しているようですが、機会があれ
ば、最初からきちんと見通したいですね。


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りょうさんにコミックのお薦めをいただいたので、

・「かわいいあなた」(乙ひより 一迅社)
・「ストロベリーシェイクSweet」(林家志弦 一迅社)

それに、藤枝雅さんの「飴色紅茶館歓談」は単行本化
がまだということなので、代わりに同じ作者さんの、

・「いおの様ファナティクス」(メディアワークス)

を注文しておきました。「飴色紅茶館歓談」は、第1巻
限定版付録のドラマCDの声優さんがスゴイので、
いずれ発売されたら購入したいです。
ついでなので、原作小説には第1巻だけで挫折してし
まっていた、

・マンガ版「マリア様がみてる」(長沢智 集英社)全8巻

も。かつて二度ほどお薦めいただいてた、心残りの
作品なので、あらためてのチャレンジということに
します。頑張れる範囲で頑張ります。

posted by mikikazu at 08:27 | TrackBack(0) | アニメ感想-いろいろ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月17日

「エル・カザド」は、第10話まで観ました。


今日は久々に、インテックス大阪で開催される
同人誌即売イベントのCOMIC CITY 大阪74
足を運ぼうかと思っていたんですけど、体調と
諸般の事情を鑑みて、やめとくことにしました。
まあ、無理することはない立場ですし、インテの
空気が悪くていつも辛いのは確かですし……。


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というわけで代わりにゆっくりと、数週来の課題
であった、「エル・カザド」(公式サイト)を、BANDAI
CHANNEL経由のネット配信
で、まとめて視聴する
ことが出来ました。
観たのは第10話「天使と暮らす男」までで、駆け足
なんですが、とりあえずりょうさんに追いつきました。
トロトロしてて、すみません。お気遣いもありがとう
ございました。あ、イタリア語なら発音はSignorina 
「セニョリーナ」が正解だったかもですね。
昨日は、「獣の奏者 エリン」(公式サイト)の再放送
も、第1部最終話になる、圧巻の第7話だったので、
そちらの感想も気になるところですが……。


そうですね、僕も基本的には、「エル・カザド」を
ここまで楽しく観ていられていると思います。
確かに同じ監督さんでガンアクション主体で、
女性2人が主役コンビの「NOIR」なんかも経験し
ていると、キャラの差異化は出来ているものの、
シリアスとコメディの配分に戸惑って、この作品
なりの語り口を把握するのに、時間がかかってし
まったのも事実ですが。
「NOIR」だったら、この人達あっさり死んでたよね、
みたいなキャラが結構いる、みたいな。
始まってしばらくの雰囲気では、ジョディさんがコ
メディ・リリーフになるなんて、想像出来ませんよ
ね? 第9話の、投げっぱなしのオチもスゴかった
ですし。
キャラに対する慣れが進むにつれ、ナディさんと
エリスの漫才の息も合っていくというか(笑)、そう
いう、どこまで逸脱していいのかという按配が、
この第10話時点で、ギリギリのところでしょうか。
次回では、ついに猫耳モードにまで発展するよう
で、そういう部分では不安が大きいですけど。


プロジェクト・リヴァイアサンを巡る大枠の話はま
だよくわかりませんが、ナディさんとエリスの2人
が、各話毎に色んな人達と出会っていくロード・ム
ービー的構成は、それなりに面白いです。
こういうプロットは、ある程度定番でいいとも思い
ますし。あまりリアル過ぎないというか、ドライ過ぎ
ない南米の描写が、このキャラ達には合っている
でしょう。
僕も、ここまでで一番のお気に入りのエピソードは、
第7話「働く男」になりますね。ラストのぎゅっがいい
です、ぎゅっが。


2人の関係の微笑ましさの一方で、人が確実に死
んでいっている物語だということもあって、決着とし
てどうするのかな、とも思います。
逆にコメディならコメディに徹して、「プロジェクト・
リヴァイアサンって、そんな程度のものだったの?
まあ、私達は私達で幸せになるから」みたいなオチ
でも、2人が幸せなら一向に構いませんけど。
後半、一気に陰鬱なシリアスに転調するのでは、と
いう予感もなくはないですし、まだ本気モードで戦っ
た様子のないナディさんが、そこでどれだけ奮闘す
るのか見てみたい、という気持ちもなくはないです。
余裕を失った彼女の、人生を賭けた、エリスのため
の彼女自身の選択の瞬間を見てみたいというか。
「ああ、この子のために、私の今までの人生はあっ
たのね」っていう……。
そうしたら、僕はそれだけでこの作品に満足です。
ともあれ、続きのエピソードの視聴については、
またお任せしますね。


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2009年05月02日

OVA「卒業〜Graduation〜」(1994年)が伝える、ノスタルジアの視点


課題である「エル・カザド」(公式サイト)へ進む前に、
ぜひ見ておきたいと思った作品が、1994年製作
のOVA「卒業〜Graduation〜」全2話になります。
これは、92年に発売された同題の育成シュミレー
ションゲームのアニメ版で、先行して視聴した、
ロボットアニメの番外編OVA「聖羅ヴィクトリー」全
2話(当ブログ感想)が、わりと楽しい出来だったの
で、真面目な本編の方も、チェックしておかなきゃと
考えていました。
なにより、「HEAVENLY BLUE」のりょうさんが、
「この『卒業』というお話は、たった2話で終わって
しまうのがあまりにもったいない(中略)――まさに
佳品中の佳品でした」というくらいに評価されてい
たので、見る価値は確実にあるわけです。
まあ、8年も前に書いた文章をいまさら読まれて引
用されていることを知ったら、きっとまた死ぬほど
恥ずかしがると思うので、このことはご本人には秘
密なんですけど。


15年前の作品であり、ソフトも当時のVHSとLDのみ
で、結局DVDが発売されることもなかったようです
から、現在視聴するには、BANDAI CHANNEL経由
のネット配信だけになるようですね。
僕自身はもう、監督さんや脚本家のお名前を作品
評価の材料にすることはありませんが、第1話「い
つまでも一緒にいられたら」の演出担当は、水島精
二氏(「鋼の錬金術師」「機動戦士ガンダム00」)で、
作中の舞台となる駅の名前がそのまま「水島」なの
は、ちょっとしたお遊びなのかも、とは思いました。


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この「卒業〜Graduation〜」という作品を、「ノスタ
ルジア」というキーワードを通して語るなら、大きく分
けて2つの語り方があると思います。


ひとつは、物語内容それ自体が描いている時間に
対してのまなざしです。
卒業を控えて、友人達との別れの寂しさと、未来へ
の期待と不安が入り混じった、人生の中でもその時
にしか感じられない気持ちへの感傷ですね。
まだ未来が確定していないということは、一方で選
び夢見る自由もあるという、未決定だからこその可
能性への想像が許された、幸せな時間への追想と
いえます。
誰もがこういう時間を経験したと感情移入出来る、
普遍的なテーマであるがゆえに、15年を経た今でも、
十分な訴求力を備えたストーリーでいられていると
思います。
また、少しずつ夕闇に沈む地方の駅の描写や、駅長
さんの優しさなども、ノスタルジアの対象としていいで
しょう。


もうひとつの見方は、15年前に作られた作品という、
歴史的立ち位置を通したものですね。
例えば作中で描かれている風俗描写、制服のスカー
トの丈の長さや、携帯電話ではなく、ポケベルがまだ
現役で活躍していたりすることに、懐かしさを感じる
ことも出来ます。
最新のアニメ作品でいうと、「咲-Saki-」などでは、
僕には女性キャラの制服のスカートの丈が、作品内
容に対して短過ぎると、違和感もおぼえたんですが、
ああいう長さが普通だと感じる世代の人が、それこそ
くるぶしまで隠すような長さのキャラもいる、「卒業
〜Graduation〜」のスカートを見たらどう思うか、逆
に興味がありますね。
また、「萌え」ではなく、単に「子供っぽい」まみさん
に代表されるような、わかりやすく、今の目から見る
と、それこそベーシックなキャラの立て方なんかも、
素朴で微笑ましく思えます。
技術的なことでは、デジタル化以前の、セル作画で
フィルム撮影された作品であるということにも、雰囲
気としてノスタルジアを感じることは可能かもしれま
せんね。


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直接的な経験の有無を問わない「懐かしさ」という
ノスタルジアの感情は、アニメ作品を作る・見る際に
おいて、とても重要な要素だろうと思います。
アニメの主人公の多くがティーンエイジャーであり、
ファンが20〜30歳代になっても、彼/彼女らの物語を
楽しめるのは、そこにノスタルジアの感情が強く働い
ているからでしょう。
また、そういった思春期へのノスタルジアは、おそらく
万国共通のもので、アニメが日本に限らない世界各
国で人気を博す理由のひとつになっているのだろうと
も想像します。
個人的な話をすると、「涼宮ハルヒの憂鬱」という作
品を評価するとしたら(アニメ版限定)、その時しか経
験出来ない、放課後や休日の、楽しい部活動の時間
へのノスタルジアというものが、確かにありました。
だから、第9話「サムデイ イン ザ レイン」みたいな、
ただそこに流れる時間だけを描くお話を作りたくなる
のは、とてもよくわかります。
現実的可能性や経験とは関係なく、ありえたかもしれ
ない幸せな時間への感情をノスタルジアとして再生す
るのに、アニメというメディアは最適なのかもしれませ
んね。


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あ、追記ですけれど、この「卒業〜Graduation〜」、
アニメ版は海外でもDVD発売されていないんですが
(「聖羅ヴィクトリー」はされました)、Windows95対応
のPCゲームの続編「卒業U」は、英語版が発売され
ているんですね(via AnimeVice)。「アメリカで発売さ
れる初めてのアニメ・ゲーム」とかパッケージに書いて
ます。TOKYOPOPがMixxレーベルを名乗っていた頃
ですから、かなり前の発売でしょう。
恐ろしいことに(笑)、オンラインストアRight Stufでは
まだ在庫が残ってます。しかも61セットも。
定価29.99ドルが、これもたった3ドルの叩き売りです
から、お買い得ではありますけど?


posted by mikikazu at 11:02 | TrackBack(0) | アニメ感想-いろいろ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月13日

「戦場のヴァルキュリア」第1話評


というわけでこちらでも、「戦場のヴァルキュリア」
(公式サイト)の第1章「戦火の出会い」を見てみま
した。
第1話についての各所の感想を読んでみて、多く
目にしたのが「見ていてイライラする」という表現で、
それは僕も同じでした。物語とキャラクターに感情
移入しようとしても、壁があるという感じで。
どうして僕はそう感じてしまうのか、考えてみました。


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まず先に言っておきたいのは、フィクション作品を
描くためには、現実そのままの描写――物理法則
とか、物事の運び方とかを、必ずしも用いなくても
いい、ということですね。
「戦場のヴァルキュリア」と同じ、戦争を舞台にした
作品として引き合いに出しますが、例えばフランシ
ス・F・コッポラの「地獄の黙示録」(79年)では、キル
ゴア中佐率いる空挺部隊が、ワーグナーを鳴らしな
がら村落に爆撃をするシーンがありますよね。
それを、「実際のベトナム戦争では、音楽を鳴らしな
がら爆撃したりはしなかった」と批判しても、映画批
評としては全く無意味です。
解釈は見た人それぞれですが、評すべきは、その
音楽の使われ方が演出として、シーンに対してどん
な効果をあげていたか、だと思います。
「戦場でワーグナーを鳴らすなんて馬鹿馬鹿しい」と
観客に思われたらそこまでなのですが、結果としての
表現は、そうは思わせないだけの迫力を備えていた
と思います。
現実を、フィクションの表現が凌駕しているんですね。
そうでなければ、わざわざフィクションとして描く意味
がありません。


だから、「戦場のヴァルキュリア」でも、現実にある
軍隊なり戦争なりのリアリティとされているものを、
そのまま引用していなくても、前提としては全然構
わないのです。フィクションなのですから、物語が
伝えようとしている何かを、きちんと提示さえ出来
ていれば、「現実の戦争ではこうだから」なんて批
判を相手にする必要もない。
逆に言うと、「現実の戦争ではこうだから」という批
判が入り込んでしまうとしたら、それは作品の表現
が、現実、あるいは現実とされているものの解釈に
負けている、ということです。


エピソードの後半で、帝国軍の兵士に追われ、アリ
シアとウェルキンがギュンター将軍の屋敷に逃げ込
む場面がありますよね。
帝国軍の兵士に包囲されつつあることを知っていな
がら、2人は外に向けられた窓のある廊下を、しゃが
んだりすることもなく、ごくごく普通に歩いていきます。
当然、それは外から丸見えになりますから、敷地内
に入り込んでいるかもしれない兵士に、見つけてくれ、
撃ってくれと言わんばかりの行動です。


作品の側に、「ここでは別に普通に歩いていてもいい」
という語り口の理論武装が出来ていれば、問題はあ
りません。
例えば、ここが中立国の大使館であるとか、迂闊に攻
撃したら危険なものが置いてあるとかにすれば、敵が
攻撃出来ない理由になります。
あるいは、アリシア達が普通に歩いていても気がつか
ないくらい、帝国軍の間が抜けている、としてもいいで
しょう。
けれど見ている僕が、「ここは窓から身を隠して進まな
いと危ない」と思ってしまうとしたら、やはり作品内では、
「当然見つけたら帝国軍は撃ってくるだろう」というリア
リティが成立していると、僕は感じてしまっているわけで
す。
実際にその後、帝国軍は敷地内に踏み込み、キッチン
の窓のすぐそばにまで来て、イサラに撃たれているわ
けですから、アリシア達が見つけられる可能性は確実
にありました。アリシア達は身を隠しつつ歩くべきだっ
たと、他ならぬ作品自体が証明しているのですね。
そういった、成立してしまっている作品内リアリティに
従ってキャラクターが行動してくれないので、「イライラ」
してしまうのだと思います。
現実と比較してどうこうではなく、作品内のリアリティ
と、キャラクターの言動の整合が取れていないのが、
この第1話の欠陥だと、僕は思いました。


posted by mikikazu at 10:14 | TrackBack(0) | アニメ感想-いろいろ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月06日

HIMEKAさんの歌う「明日へのキズナ」(戦場のヴァルキュリアOP曲)を聴く、2つのスタンス


あ、いよいよテレビアニメ春新番シーズン開始という
ことですね。
チェック予定に入っていた、「戦場のヴァルキュリア」
(公式サイト)は、こちら関西地区では先週土曜日深
夜から放送が始まっており、本編を見るのは、りょう
さん
に合わせて、BS11で放送が始まる4月11日以
降になるんですけど、ちょっと気になっていたOPだけ
見させていただきました、すみません。


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この「戦場のヴァルキュリア」のOPテーマである「明
日へのキズナ」という曲に対して向き合うには、とりあ
えず2つのスタンスが思いつきます。
まずは、歌い手であるHIMEKAさん(公式サイト)自身
の「物語」にとっての、ひとつの到達点とするものです。
ご存知のようにHIMEKAさんは、カナダのフランス語
圏ケベック州の出身で、日本語のネイティブ・スピー
カーではありません。そんな彼女が、日本語でアニメ
ソングを歌い、プロのシンガーとしてデビューするとい
う、サクセス・ストーリーの最初のクライマックスだと
考えるわけですね。


彼女の「物語」を知るには、公式サイトからはリンク
されていませんが、デビュー以前から綴られている、
他ならぬ彼女自身のブログ「HIMEKA in JAPAN」
が、一番役に立つテキストになると思います。
ブログの最初の頃は、とにかく「お金がない」という言
葉ばかりで(笑)、生活するだけで精一杯、歌の練習
をするのもカラオケボックスしかなくて、お金がない時
はそれも無理、日本語上達のための学校に通うなん
てとても考えられないといった感じの、本当に自分は
日本でアニソンシンガーになるという夢をかなえられ
るんだろうか?という、不安と焦りの気持ちがたくさん
伝わってきます。
それが、第2回全日本アニソングランプリに応募し、
見事に勝ち抜いて、ついにプロ・デビューに至るまで
の過程は、他人が感情移入するには、十分です。
○○○○の写真は削除して欲しいですけど。うぎゃ。


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一方のスタンスは本質主義というか、歌はあくまで独
立したひとつの存在であり、歌い手がどんな物語を背
負っていようと関係ない、というものですね。
例えば、ハリウッドで仕事を得ようという者にとっては、
英語でのコミュニケーション能力は最低限の必要基
本事項に過ぎず、「非英語圏出身なのに英語が出来
てスゴイね」なんて褒められることはないでしょうし、
それだけで仕事に繋がることはないと想像します。
日本市場向けのアニメOP曲なのだから、日本語で歌
うのは当たり前であって、その当たり前のことが出来
ているだけで、評価するのはおかしい。
重要なのは、結果としてのその曲自体が、OP曲として
作品とその物語に、どんな貢献をしているかである――
という考えになります。


確かに全ての人が、「この曲は日本語ネイティブでは
ない、外国から来た人が歌っている」という知識を前
提に聴いてくれるわけではないですよね。
本当に、ただの深夜アニメのOPとして、あるいはたま
たまラジオや有線、アニメショップの店頭で流れていた
曲としてだけ、この「明日へのキズナ」に触れるのかも
しれません。
そんな人達が、HIMEKAさんのことを知らないからとい
って、この曲のことを理解する資格がないとは、決して
言えないでしょう。


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僕個人の感想は……、「戦場のヴァルキュリア」という
作品については何も知らないままなので、作品のOP
としてふさわしいのかどうかという判断は全く出来ませ
んけれど、前者のスタンスを踏まえて言うと、彼女の
母語であるフランス語で歌ったのなら、どんな感じに
なるだろう、とは思いました。
日本語で歌うからこそ、アニソン歌手としてのアイデ
ンティティが構築出来るという話は以前にも少ししま
したけれど、だからこそ、とりあえずデビューを果たし
た彼女の物語が進むべき次の段階は、自分にとって
ネイティブでない言語で歌うことの、シンガーとしての
本質的な意味になると思います。


母語であるフランス語での方がずっと上手に歌えるの
だとしたら、日本語で歌いたいという気持ちは、自己
満足にしかならない。
歌は何かを伝えるためのものだから、歌い手という媒
介である自分は、自分にとってベストの表現ツールを
選択すべきである。
自分は日本語で本当に、何かを伝えられているのか、
日本語でしか伝えられないものが、自分に与えられた
アニメソングの中にあるとするなら、それは一体なんな
のか――。


「だから、歌の力でみんなにも力をあげたいです。

 助けてくれて、ありがとう。
 私は歌声で返すつもりです。」

 (2009年3月23日付け記事より)


そういうHIMEKAさんの気持ちが、本当に伝わる瞬間が
あればいいと思います。


posted by mikikazu at 07:57 | TrackBack(0) | アニメ感想-いろいろ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月26日

「卒業 Graduation 聖羅ヴィクトリー」――演目としての「ロボットアニメ第1話」


最近は、アニメ感想あるいは評論の方にも、もう
少し力を入れなきゃと思ってて、バンダイチャンネ
経由になるんですが、1995年のOVA作品「卒業
Graduation 聖羅ヴィクトリー」
の第1話「花鳥風月
乙女の舞!事件だよ、全員集合!!」を見てみました。


この作品は、1992年にPC-9800シリーズ対応で発
売された育成シミュレーションゲーム「卒業〜Graduation
〜」に登場する女の子達を主役にして描いた、ゲー
ム本編とは内容的に全く無関係なロボットアニメと
のことですね。あ、ゲーム「THE IDOLM@STER」と
アニメ「アイドルマスター XENOGLOSSIA」みたい
な関係ですか。
原作ゲームについては何も知りませんが、いわゆる
「ギャルゲー」最初期の名作、とされているみたいです。
知らないにもかかわらず見てみようと思ったのは、
正直に言ってしまうと、バンダイチャンネルの作品
リスト
をチェックしていて、単に一番馬鹿馬鹿しそう
な作品に思えたから、だったりします(笑)。
でも実際に見てみると、なかなかにしっかりとした作
品だったので、少しだけ論じてみますね。


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女の子キャラとの関わりを主軸にしたゲームをアニ
メ化する際に難しいことのひとつは、女の子達と触
れ合っていく男性キャラの扱いだと思います。
ゲームをプレイしている間は、主人公イコール、プ
レイヤーの主観視点が保たれているわけですが、
客観視点から描かれるアニメだと、自分以外の男
性キャラと女の子達が、お話したりデートしたりする
のを脇から眺める形になるわけで、まあ、面白くな
いですよね(笑)。
かといって、アニメのお話に男性キャラを出さない
とすると、そもそも男性と関わるためだけに存在し
ている女の子達の存在・行動理由もなくなってしま
って困ります。


この「聖羅ヴィクトリー」では、ゲーム版の主役視
点であった男性キャラの教師を出さない代わりに、
女の子達の存在理由として、凶悪な犯罪ロボットと
戦う正義の組織「聖羅V」を結成した、という設定が
用意されています。
この物語設定は、少なくとも第1話においては成功
していると思います。
その理由には2つあって、まず「暴れている巨大な
悪に立ち向かう正義のロボットが突然現れ、悪のロ
ボットをやっつける」というフォーマットが、ロボットア
ニメの第1話のそれとしてお馴染みの、共通理解を
得たものであり、物語世界構築に余計な手間を必要
とせず、ただ女の子達のキャラとしての魅力を伝え
るのに専念出来るから、ですね。


この作品が制作された1995年の時点でも、いまさ
ら「そんな巨大人型ロボットなんてありえない」とい
う批判は野暮なだけであり、ロボットアニメならこう
いう第1話でいいという、ジャンルに対する了解が広
く存在していたと思います。
演劇や映画でも、何度も上演・制作されてきた名作・
名場面というものがあって、筋は誰もが知っていても、
今度は誰が演じてどういう演出解釈がなされるのか
という点に、観客の興味が集中するのに近いですか。
だから、ゲームのキャラである女優達に、「ロボット
アニメの第1話」という演目を与えた、と考えればい
いわけですね。
ロボット出動の際に、全員が制服姿になるのは、理
屈で考えればおかしいですけれど、彼女達が、そも
そもそれ以上のアイデンティティを求められてない
象徴だろうと思います。


この選択が、原作ゲーム内でのキャラにとってふさ
わしいものであったかどうかは、ゲームを知らない
のでわかりませんが、結果としてのアニメを見る限
りでは、あらためての世界構築を省いていい分、女
の子達の魅力を伝える場が増えているのだろうとは
思いますし、キャラが売りである作品としては、正し
い方向性だったでしょう。
これが逆に、「誰でもわかるロボットアニメの第1話」
ではなく、男性キャラは出さないが、あらためての世
界構築が必要なプロットだったりしたら、30分の時間
は説明だけで終わってしまったと思います。
役に立つ男性キャラの排除によって、「女の子達同士
だけで力を合わせて頑張る」という意味でのお話にな
ったのも、個人的には嬉しいですし。あ、あんまり力
は合わさってなかったような気もするかも(笑)。


成功の第二の理由は、そういうプロットを伝える、
アニメ作品としてのクオリティが高いことですね。
ちゃんと出来ている、というと失礼に聞こえてしまう
かもしれませんが。
作画は良好だし演出にもキレがある。というか頑張
り過ぎくらいに(笑)、ロボットアニメとして燃えるシー
ン・アクションが満載です。
ロボットアニメという「何でもあり」なジャンルだから
と、ヒロインの1人志村まみさんのコピーアンドロイ
ドまで登場させて、さらに女の子を追加するという、
ありがたいサービスもありますし。
これが、ゲームの延長にある現実的なドラマだった
りしたら、そんな荒技は無理ですよね。
でも本物を蹴飛ばして操縦席奪うのは、やっぱりひど
過ぎです(笑)。


ともあれ、どんなに馬鹿馬鹿しいことでも、実力が
ある者が徹底して本気でやれば、これだけ面白くなる
という証明だろうと思います。第2話も楽しみです。
唯一の困った点は……OPと出動シーンでの裸ですね。
別に成人向けゲームが原作というわけではないので
すし、それ以外に本編内でファンサービス的な描写
はほとんどないのですから、それだけ浮いてしまって
います。


ちなみにこの作品、当時ビデオとレーザーディスクは
発売されたようですが、結局日本国内ではDVD化
されていないみたいですね? 日本で見ようと思ったら、
ネット配信の利用になりますか。
北米では、「Sailor Victory」のタイトルで、MEDIA
BLASTERSから2001年2月に、DVDが英語吹替入
りで発売されています。アメリカAmazonだと、残り2
枚ですが、まだ在庫がありますね。

posted by mikikazu at 08:56 | TrackBack(0) | アニメ感想-いろいろ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月22日

「ストライクウィッチーズ」第1話を見て――まなざしの無意味性という価値


今日は、評論を少しだけです。
僕は基本的に、いわゆるファンサービス描写を
強調したアニメ作品は視聴しないのですけれど、
「ストライクウィッチーズ」(公式サイト)については、
10年近く交流し続けていて、最も信頼出来る方
が楽しんでいると知り、視聴すべきかどうか、煩
悶の日々を半年ほど続けていたんですね。
それにも、もう疲れてきて、一生悩み続けるわけ
にもいかないし、今回アニメNewtypeチャンネル
第1話を無料配信していると知ったので、覚悟
を決めて、その第1話だけでも見てみることにし
ました。


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ストーリーやキャラクターについて、第1話だけで
どうこう評価することはしませんが、特に冒頭の
空中戦闘シーンに集中していた、巷で話題になっ
ているカメラワークに関しては、作中でどう描かれ
ているのか、確認することが出来たと思います。
確かに、驚きではありました。
あくまで個人的見解ですが、それらの描写につい
て考えてみて気づくのは、描写自体の物語的無
意味さの、無意味であるがゆえの、見る側にとっ
ての価値ですね。


映像物語作品というのは、物語という意味に沿っ
た映像を、フレームによって切り取り、観客に提
示するものですよね。撮影し、上映・放送する過
程においては、どうしてそういう映像を選択した
かという、作り手の意図が、常に付随している。
例えば、主人公である女の子の前から撮影して
いるカメラが、彼女の背後から凶器を構えて近寄
ってくる悪人の姿を、肩越しに捉えたシーンがあ
ったとします。
そのカメラの視点は、女の子の視点ではないし、
悪人の視点でもない。女の子に危機が迫っている
という物語的意味を、観客に伝えるための、第3
の視点です。
そこで観客は、「危ない、気づいて!」と女の子の
危機に息をのんでもいいし、「気づかないなんて、
馬鹿だ」と女の子を思ってもいい。それは、観客
側の解釈の自由なんですけれど、少なくとも反応
し、解釈する基点となるだけの、文脈というもの
があるわけです。受け入れるにせよ、拒絶するに
せよ、そこには対象としての意味が必要です。


では、この「ストライクウィッチーズ」における、一
連の描写に、物語的意味はあるでしょうか。
お尻や股間を撮影される、アニメですから描かれ
ることが、例えばストライカーユニットの機能の説
明に不可欠といったような、なんらかの物語的意
味を備えているでしょうか。
この作品の、最も有名なキャッチフレーズは、
「パンツじゃないから恥ずかしくないもん!」です
が、少なくとも作中キャラ達は、自分達の体の部
分が、そういう風にクローズアップされて描かれ
ていることを自覚していませんし、結果として、
「恥ずかしく」感じたりもしていないようです。
どういう風に描かれていようと、彼女達の戦闘そ
れ自体の理解には、なんの影響もないように思い
ますし、描写がなくても、大枠の物語は成立しそう
です。


同じように股間を映し出す映像でも、例えば「スカ
ートめくり」のように、要因としての行為者が描かれ
る場合には、被害者である女の子においても、その
行為に対する反応によって、怒るにせよなんにせよ、
行為者との関係性という、物語的意味が備わります
よね。
けれど、キャラクターとそも無関係な「ストライクウ
ィッチーズ」のカメラ視点からは、そういった意味は
発生しようがありません。
あるのは、画面の外にだけへ向けられた、空白の
文脈です。
空白であるからこそ、観客は、その視点を自分の
ものとして獲得出来る、自分なりの意味を仮託して
受け入れられる、という構造が、この作品に吸引力
を発生させていると思います。


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もし、描写に物語的意味が備わっていたなら、
「このことを説明するために、この場面ではお尻
を映さなくてはならないんだな」といった、客観的
解釈という第三者性のクッションを通して受けとめ
ることが出来ますし、少女のお尻や股間の映像を
見ている自分にも、それなりの物語的必然性があ
るからという、エクスキューズが用意出来ます。
エクスキューズなんて必要ない、そのものを見たい
から見たいというのも、それはそれでひとつのスタ
ンスですが。


けれど、そんな物語的意味のない、「ストライク
ウィッチーズ」の場合は、解釈の逃げ場が与えら
れていない。映像と、そういう映像を見ている自
分との関係性を、自分自身でどうにかして構築し
なくてはならない。
違う言い方をすれば、作品のそういう描写を見て
いる自分を、第三者としてではなく、主体的に向
き合っている者として、自分で自己認知しなくては
ならないのです。
これが「プリキュア」シリーズのような作品だと、
本来の視聴者は小さな子供であって、自分はあく
まで脇役に過ぎないという認識が、作品への距離
感を作ってしまうわけですが、「ストライクウィッチー
ズ」の場合の観客は、まさに自分しかいない主役
として、一対一の立場で、作品にまっすぐ向き合う
ことが許されるわけです。
そこで求められる能動性が、作品に対する愛着に
もつながるでしょう。自分は逃げずに、作品を受け
入れたんだ、これが正直な自分なんだという。


第1話の視聴だけでの感想ですが、作品と共に、
それを見ている自分を受け入れられる、自己了解
の心地良さのシステムが、「ストライクウィッチーズ」
という作品の魅力のひとつとして機能していると
思いました。


posted by mikikazu at 10:16 | TrackBack(0) | アニメ感想-いろいろ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月07日

「VIPER'S CREED」第1話、見ました。


というわけで、いろいろ始まっている冬新番の中か
ら、お薦めいただいた「VIPER'S CREED」(公式サ
イト
)の第1話「独眼-cyclops-」を、アニマックス
見てみました。
とりあえず、放送が始まる日になっても、ついに
正式な放送日・時間を伝えなかった公式サイトは、
無用の長物だと思います。


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この作品の前に、たまたま22年前のOVA「バブル
ガムクライシス」の一部を見てたんですね。
「VIPER'S CREED」の監督さんも関わっていた作品
というのは偶然でしたが。
復興後の未来都市でのメカアクション作品という意
味では同趣向なわけですけど、確かに映像の密度
というか、絵の情報量は全然違いますね。
にもかかわらず、「VIPER'S CREED」の方が、圧倒
的に「物足りない」「薄い」と感じてしまうのは、映像
と、それ以外の物語パーツの情報量との釣り合いが
取れていないからだと思います。


一番大きいのは、アクション・シーンでの音響演出で
すね。絵の情報量が増えれば、その絵から発生する、
伝わってくるだろう音情報も増えてきて欲しいわけで
すが、あいにくと、そういう部分での緻密さは用意さ
れていなくて、せっかくの絵に見合うだけの臨場感が
伝えられていないのは、物語演出として、とてももっ
たいないと思いました。
これはいわゆる物理音だけではなくて、そういう絵
で描かれた世界の中にいる、キャラクター達の言葉
の響き、なんかも含むんですけど。これだけのメカを
動かしている人達にしか出来ない、息づかいまで感
じさせて欲しくなるというか。
よく「CGだから軽い」というような意見がありますけど、
メカを軽く感じるのは、それを扱っている人間なり、組
織なりの芝居が軽いから、という時もあると思います。
高速走行中にロボットに変形出来るバイクなんて嘘か
もしれませんが、嘘だからこそ、上手に騙してほしいの
です。


「バブルガムクライシス」の場合は、手描きのセルアニ
メですから絵としての情報量は比較すると少ないんで
すが、キャラクターが出来る芝居のレベルもふまえて、
その少なさに見合った程度の音像の構築がされてい
たとは思えます。
まあ、「当時はこれでよかった」という、80年代アニメ
へのノスタルジーを含んでいる意見だとは認めますけ
ど(笑)。
これは僕の視聴環境における音響設備の貧弱さが理
由かもしれませんが、これだけのメカが疾走しバトルす
るのであれば、もっとスゴイ音を聞きたかった、聞こえ
て来る筈だ、というのが一番の感想ですね。
そういう意味で、「VIPER'S CREED」ならではの世界
観・リアリティの構築、というレベルには達していない第
1話だったと思います。
作業量ということを考えると、テレビアニメには求め過
ぎなのかもしれませんが……。
映像の密度を上げると、他にも密度を上げなくてならな
い要素が出てくる一方で、そもそもが記号表現に多くを
ゆだねるアニメとしての「らしさ」をどう平行させていくか
という、難しさを考えさせられる作品ではありますね。
キャラクター・音楽については、まあ普通というか、特に
目新しいインパクトはありませんでした。


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2008年09月17日

映画「ワールド・トレード・センター」――映像物語作品における作家論について


アニメ作品ではありませんが、論自体はアニメ作品批評
も含んで対象としたものなので、よろしくお願いします。
CSのSTAR CHANNELで放送されていた、映画「ワール
ド・トレード・センター World Trade Center」(以下WTC
06年 監督オリヴァー・ストーン)を見てみました。
別に、監督のオリヴァー・ストーンや主演のニコラス・ケ
イジのファンというわけではないのですが、今読んでい
「入門・現代ハリウッド映画講義」(編・藤井仁子 人
文書院)の第一章で、「『経験』の救出――パニック映画
としての『ワールド・トレード・センター』」と題し、映画史研
究者の鷲谷花氏が同映画を取上げていたので、ちょうど
よいタイミングだと思い、確認してみることにしたのです。


映画の出来はいい意味で普通だったのですが、今日の
本題は、映画評それ自体ではありません。
鷲谷氏は、この映画へのアメリカでの評価を、

「先述したように、もっぱら個人の部分的・主観的な経験
に焦点をおいて、『9.11』という出来事の再現を試みる
『WTC』に対して、監督のオリヴァー・ストーンが政治的な
批判意識を失い、商業的あるいは政治的要請に妥協した、
といった批判ないしは失望が表明されてきました」(P33)

と記しています。
日本国内でも、この映画のレビューを検索してみると、
「オリヴァー・ストーンらしくない」「これまでの作品のよう
に、社会派として突っ込んだ描写や陰謀論を期待してい
たのに」という批判的意見は見つかります。


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で、これ以降は「WTC」に限ったことではない、一般論とし
て進めていくのですが、「監督らしくない」ことは、その作品
の欠点になるのかな?と、ふと思ったわけです。
もちろん観客が、ある監督の新作を見に行こうとする時に、
その監督が得意とされる演出スタイルや、語り口の技法を
期待するのはある程度当然だと思います。オリヴァー・ス
トーンのように、特に「社会派監督」としての評価が一般的
にされている人なら、そういうスタイルを期待しますよね。
また映画を配給・上映する側も、「○○○の監督!」という風
に、代表的な有名作を冠付けて、監督の名前で売ろうとす
るのも、また普通です。セールス・ポイントは、どんな販売ビ
ジネスでも大切ですから。


映画は、監督個人の表現物であるとする、作家主義理論
でとらえていいのかは、別の話としますし、観客それぞれ
が好きに考えていい部分です。
ある映画を「監督らしくない」と感じた時には、作家主義理
論に基づく、関わった作品には通底すべき、作家独自のタ
ッチ・主張が欠けていると考えたわけですね。観客がそれ
を期待して劇場に足を運んでいたなら、お目当てのものを
見られなかった残念さは、もちろん生まれるでしょう。
でも逆に言えば、それはその観客が、ずっと同じものを、
少なくとも同じ監督が作ったとわかるようなものを作り続け
て欲しいと要求している、ということです。
エンターテインメント・ビジネスですから、観客が求めるもの
を作るのは当然ですが、ここで生まれているのは、観客は
「監督らしさ」という作家性の現れを求めているつもりなのに、
結果として監督側の、作家としての発展や変化を阻んでし
まっているかもしれない、皮肉な構造です。


でも、「監督らしくない」という判断は、ひとつの独立した作
品として「WTC」を評価しようとした時には、実はどうでもい
いことにもなります。
単純な話、オリヴァー・ストーンの過去作を全く見ていない
人が「WTC」を見た時に、「監督らしさ」を定義するために
過去の作品から指摘された要素の有る無しを、そもそも気
にするでしょうか。
その人が気にするのは、一本の映画としての「WTC」の出来、
ただそれだけです。
「監督らしさ」を知らないから、その人には「WTC」を評価する
資格がない、なんていうわけはありませんし、むしろ「監督らし
さ」を知らないために、バイアスなく、プレーンな状態で作品を
見られるかもしれません。
それで面白く感じるかつまらなく感じるかは、まさにその個人
の判断です。


実写でもアニメでも、監督個人を作品の作者として、「○○○
作品」と批評する作家論的スタンスはあります。
ただ僕としては、全ての作品を監督個人の作家論的文脈の
中だけで結びつけ評価し、作品それ単体での評価が失われ
てしまうのも、もったいなく感じてしまうのです。
「誰某が監督だから」「あの監督はこういうテクニックの人だ
から」という知識が先入観として、見る時の障害になってし
まう方を恐れているのですね。
そういう知識が、コミュニティの共通認識として機能する現
実も認めますが、僕自身としては、観客としての自分と作品
の、個対個の関係を重視したいので、とりあえず作家論的ア
プローチからは距離を置いておく、という立場です。



posted by mikikazu at 08:40 | TrackBack(0) | アニメ感想-いろいろ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月16日

「東京ゴッドファーザーズ」評――アニメ表現の自由さとそれに伴う労力について


先にちょっと、です。
アメリカ・フロリダ発のポッドキャストAnime World
Order
が約6週間ぶりに、新エピソードの第72回
配信開始しています。
まだ始まって30分ほどの、OTAKU USA編集長の
パトリック・マシアスさんがゲスト登場した辺りまでし
か聞けていませんけど。
2005年12月の始まった当初は、それこそ毎週更新
くらいの勢いがあったのに、最近はめっきり更新が
なくなってしまったのは、引越しなど、生活状況の変
化もあるようですけど、一番大きいのは、メンバーの
DarylさんとClarissaさんが、OTAKU USAにライ
ターとして参加し、そちらの方に時間をとられるように
なったことだと思います。
無料奉仕のポッドキャストより、ギャラも出ている筈
の記事執筆の方を優先するのは理解出来ますし、
記事の質もいいものです。
ただやっぱり僕は、Darylさん、Geraldさん、Clarissa
さん3人の、役割を心得た会話の雰囲気が好きなの
で、出来ればもう少し定期的に更新はして欲しいです。
最近は他のアニメ系ポッドキャストも、かつての元気
さはほとんどないですし……。


そのClarissaさんもゲスト参加している、Destroy
All Podcasts DX
の最新エピソードである第68回
(9月13日配信開始)のお題は、「機動戦士ガンダム 
逆襲のシャア」でした。
レギュラーのAndrewさん、Jeremyさん、そして
Clarissaさんの3人共がそろって、厳しい評価を下
していたんですが、その最大の理由は、「Zガンダム
の頃と全く違う、大量虐殺まで容認するようになった
シャアの変心が理解出来ない」というもののようです
ね。少なくとも劇中でわかるようには説明されていな
いと。アメリカでは「ZZ」は正規リリースされていませ
んが、シャアについてはあまり関係ないですし。
それとやっぱり、「誰からも嫌われている」と言われ
てしまうくらいにクェスの評判が悪いです。
逆に評価されているのは、出渕裕さんのモビルスー
ツ・デザインですか。


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引き続いて本題。
アニメの中での、キャラの動きの表現・演出という
ことでさらに話を続けるのですが、今回例に出すの
は、「東京ゴッドファーザーズ」(03年 監督・今敏 
公式サイト)になります。
(以下、評の性質上、物語のラストにまで言及して
いますので、未見の方はお気をつけください)
クリスマスの東京をリアルな背景で描いたこの作品、
キャラクターの動きも基本的にはその背景から脱し
過ぎない、リアルなもので演出されていたと思います。
演技という面では、それなりのアニメ的デフォルメも
ありましたが。


で、僕が見ていて「あれ?」となったのが、終盤のカ
ーチェイス終了時のシーンです。
タクシーの窓枠に腰掛けるようにしていた、ハナとミ
ユキが、走っているタクシーからそのまま地面に降り
るシーンがあるのですが、慣性の法則を無視したよう
に、2人ともわりと楽に着地するんですね。
走っている車から降りるのは、かなりの低速度でも怖
いというか、衝撃がある筈ですから、2人とも転ぶなり
よろけるなりするのかと思っていたら、全くそんなこと
はありませんでした。
タクシーの速度は、ハナの時はまだしもミユキの時は、
それなりの速さだった筈ですけど、その時だけアクシ
ョン・スターになったかのように、ミユキは華麗に着地
します。
この処理が、僕には作品がそれまで維持してきたリア
リティからの逸脱に思えたんですね。本来なら、転ぶ
なりよろけるなりするのが、この作品のリアリティの筈
だったのではないかと。
直前までのカーチェイスでは、主人公ホームレスの1
人ギンも、かなり身体を張ったアクションに挑戦してい
るのですが、一応は成人男性ですし、死に物狂いで
ジャッキー・チェン並に頑張っている、ということで納
得は出来ていました。


ここで、何故それが問題になるかというと、本作では、
リアリティからの逸脱による「奇跡」が、クライマックス
に用意されているからなんですね。
端的にいうと、ビルの屋上から落ちそうになったハナ
を、突然の突風(ビル風)が救うわけですが、風がその
タイミングで吹くことにはなんの理由も説明もないがゆ
えに、「奇跡」なわけです。
映画の中でこういう大きな奇跡を起こしていいのは、
通常では一度だけですけれど、奇跡が起きていい前
提として用意されなくてはならないのが、「奇跡なんて
起きない」というだけのリアリティがある世界観です。
奇跡と呼んでいいくらいの現象が簡単に起きてしまう
世界なら、奇跡それ自体のありがたみがありませんか
ら、「奇跡が起きない」世界観は、奇跡を演出するため
には絶対に必要です。
この作品ではずっと、偶然の連鎖によって物語が結び
続けられているのですが、それに対応するキャラクタ
ー達の物語は、ずっと一定のリアリティを守っていまし
た。
それが破れたのが、走るタクシーから降りても平気な、
物理法則を無視した「有り得ない」シーンであり、結果
として、クライマックスに用意された「有り得ない奇跡」
の価値を直前でスポイルしてしまっています。


描写の受けとめ方は、それぞれの個人で差もあるでし
ょうから、演出ミスとして批判したいのではなく、このこ
とが、何でも描ける筈のアニメ表現の、作業としての大
変さを示す例だと考えてみたいのですね。
これが実写であれば、重力であったり、慣性だったりと
いった物理法則の自然な表現は、特に演出しなくても、
俳優さんやスタント・ダブルさんの身体が、そのまま映し
出してくれます。
走っている車から降りようとすれば、その速度なりの勢
いが、降りる俳優さんの身体に伝わって、反応してくれ
ますから、それから逆算しての演出が出来る。
けれどアニメの場合は、そういった実写では努力しなく
ていい自然なことも、作品のリアリティに沿った形で、
きちんと想像し計算して、演出しなくてはなりません。
アニメは「何でも描ける」一方で、「全てを描かなくては
いけない」のですね。
アニメは画面内の情報を全てコントロール出来るのは
確かですが、その作業を整然と統一性をもって行い、
かつ魅力的な物語に仕上げるのは、実写とはまた違う
意味で大変な作業なのだとあらためて思います。


posted by mikikazu at 07:55 | TrackBack(0) | アニメ感想-いろいろ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月15日

「カウボーイビバップ 天国の扉」でのクンフー・ファイトの妥当性について


先にいつもお世話になっている素敵サイト・ブログ
様の最新記事のご紹介です。
「ジェット フォレスト パークへようこそ」の黒森コウ
さんが、前編に続いて、「プリキュア☆ミラクル☆マ
ジカル☆コンサート」のレポート後編を、15日付け
でアップしてくださっています。深夜の更新、とって
もお疲れ様でした。
ステージの構成や、演目、お客さんの反応、各歌い
手さんごとの感想など、その場の雰囲気についてた
くさん細かく綴られた、充実のレポート内容になって
いると思います。僕個人は、リアルで歌い手さん達
の歌唱を耳にしたことはないので、盛り上がりの様
子がとっても羨ましかったり。
ステージの模様は撮影されていたとのことなので、
DVD発売は、僕も期待したいです。


もうひとつは海外から。
カナダ・トロントにお住まいの、「英語でユ〜ギオ〜
!」
のピグモんさんが(メッセージありがとうございま
した)、北米で放送の始まった英語版「遊戯王5D's」
視聴メモ用ブログを開設されて、さっそく第1話に
ついて詳しく紹介してくださっています。
キャラクター名の変更や、ストーリー・設定の改変
点、英語台詞の抜粋など、こちらも充実した内容で
す。というか、やはり日本語で書いてくれると、とても
助かります(笑)。
声優さんについては、なかなか確定情報が出てい
ないようで大変みたいですね。


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さて本題。
昨日の話とは逆に、実写作品では描けても、アニメ作
品では機能しなかった表現・シーンの例として、まず思
い浮かぶのが、映画「カウボーイビバップ 天国の扉」
(2001年 監督・渡辺信一郎)終盤での、主人公スパイ
クと敵役ヴィンセントによる、クンフー・ファイトになるで
しょうか。
「カウボーイビバップ」の主人公の1人であるスパイク・ス
ピーゲルは、ブルース・リーを始祖とする武道「截拳道」
(ジークンドー)の達人と設定されていて、テレビシリーズ
でも、リーの映画での台詞「感じるんだ。水のように」を
引用していました。直接ブルース・リー本人について言
及していたかどうかは、記憶にありません。


映画「天国の扉」のクライマックスでは、軍の特殊部隊出
身というヴィンセントと、生身での格闘技バトルを延々と
繰り広げるわけですが、僕個人は観客として、このシーン
を全く楽しめませんでした。
何故かというと、これはあくまで僕個人の意見ですけれど、
クンフー映画のアクションの魅力というものは、やはり生
身の俳優さんが演じているから生まれる、と思うのです。
生身の肉体や重力といった制限の中、基本は自分達と同
じ構造の身体の持ち主が、カメラの前で超人的な動きを
実際に演じているという、物理現実があるからこそ、観客
はそのシーンに感嘆するわけです。
確かに映画のトリックというものもあって、カット割りや撮
影スピード、スタント・ダブルなどにより、様々なアクション
の奇跡が生みだされてもいるのですけど、俳優さんの肉体
とその動きの説得力というものは、根底に必ずあります。


一方、アニメのキャラクターは原理的に、何でも出来る存
在です。その作品の世界観・文体による制限はありますが、
描くことが許される範囲では、何でも描ける。そこに物理的
制約はありません。
とりあえずクンフー・ファイトに限定した比較ですけど、そ
もそも「何でも出来る」アニメキャラが、どんなアクションを
示してみても、「何でも出来るわけではない」筈の、生身の
俳優さん達が決死で演じるアクションが伝えるのと、同種の
驚きと感動は、決して生み出せないのですね。
もちろん、身体全身を使ってのバトル・アクションをアニメ
ートする、技術的な高さはありますし、カメラワークも含め
て、それはもの凄いレベルだったと思います。ただ、物語
的感動を導くようなものではなかった、ということです。


クンフー・ファイトということでは、実写には他の利点もあっ
て、ずっと昔の物語として描かれる作中のキャラクターの武
術を、演じている現代の俳優さんも実際に得意としていたり、
武術指導の人が、過去実在したとされるキャラの曾孫弟子に
あたったりするといった歴史も、同時に背負うことが出来ます。
それは、架空の存在であるアニメキャラには、絶対に望めな
いことです。


どうして「天国の扉」のクライマックスに、クンフー・ファイトが
選択されたのか僕はその理由を知りませんけれど、結果と
して僕にとっては、間違った選択になりました。
実写のクンフー映画やその歴史に触れていないようなアニ
メファンの方だと、また違う感じ方だったかもしれませんが。
デジタル革命が進んで、実写とアニメの差はなくなりつつ
あるという意見もありますが、僕としてはクンフー映画はず
っと、実写でないと表現出来ないし、実写でないと意味のな
いものだと考えています。


では、アニメでないと表現出来ないものはというと、まず思
い浮かぶシーンは、映画「ルパン三世 カリオストロの城」
(79年 監督・宮崎駿)中盤での、ルパンがカリオストロ城の
屋根を駆け下りて、クラリスの囚われた塔まで大ジャンプす
るくだりでしょうか。
これは実写でやっても全く説得力はないでしょうし、劇伴音
楽の演出も含めて、アニメだからこその魅力が最大限に示
されたアクション場面のひとつだと断言出来ます。
クンフー映画のアクションとはまた違う意味で、ジャンプする
ルパンの肉体に、観客の誰もが感情移入したと思います。
要は、実写にしてもアニメにしても、アクションを描く上でキャ
ラクターに感情移入させるための、それぞれの方法論がある、
ということですね。



posted by mikikazu at 08:03 | TrackBack(0) | アニメ感想-いろいろ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月14日

日本の実写映画における漫画・アニメ的表現の必要性について


映画評論家/特殊翻訳家であるという、柳下毅一郎氏
(公式ブログ)の評論集「シネマ・ハント」という本に目を
通していたんですね。
その中に、韓国映画「火山高」(01年 監督キム・テギュ
ン)を論じた項があり(P136〜137)、「この映画は、日
本で作られるべきだった。」と題されていました。


僕個人は同映画を未見ですけれど、柳下氏の主張は、
漫画的表現にあふれたこういう映画は、まず漫画大国
である日本で作られるべきなのに、何故か日本では実
写映画において、漫画・アニメ的表現は積極的に用い
られてはいない、というものだと思います。
「火山高」の日本での公開は2002年12月で、5年以上
の前のことですから、それ以降状況は大きく変わって
いるかもしれないし、いないかもしれません。


ともあれ、「もちろん、日本でも漫画はいくらも映画化
されている。不思議なことに漫画的な表現を積極的に
使おうとする映画はない」「世界に冠たるアニメ大国日
本において、なぜか誰もアニメ的な映像表現を映画に
活用しようとはしない」という柳下氏の主張を、2002年
時点での事実だと仮にすると、その理由として、どんな
ものが想像出来るのか、考えてみます。


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予算とか技術的なことは別にして、一番最初に思い浮
かぶのは、漫画的・アニメ的表現を見たければ、漫画や
アニメを見ればいいから、になるでしょうか。
漫画的・アニメ的表現が最大限に機能するのは、やは
り漫画やアニメ作品においてですし、それを世界で最新
・最高レベルで享受出来る立場に、日本の消費者はい
るわけですから、ことさら実写映画に、漫画的・アニメ的
表現を強く求める理由がないという、観客の側のニーズ
の欠如ですね。
漫画・アニメを原作とした日本の実写作品に対する一
般観客側のニーズは、「あの人がこの役を」というキャス
ティングなどの、原作にはない、映像表現とは別のもの
に対する方が、まず強い気がします。
一方でハリウッドでの実写化はありがたがるのは、その
映像技術力と予算の大きさに対する、期待と幻想がある
からでしょう。


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でもまあ正直、「日本映画」という大枠のくくりで、どうこ
うすべきという意見を発するつもりは、僕個人には全然
なかったりします。
そのシーンを演出するために、漫画的・アニメ的映像表
現は必要なのかどうかという、個々の作品レベルでの
作り手の判断、そして観客の反応以上のものを、手段の
解説として求めません。
だから「押井守のようにアニメ映画で世界中に影響を与
えた人物ですら、実写映画を作るとアニメ的映像表現を
避けてしまう」という柳下氏の言葉がありますが、押井監
督にしてみれば、アニメ的表現はアニメ作品でやればい
いのだし、実写作品にアニメ的表現がないのは、それを
用いる文脈的理由がない、というだけのことだと思います。
結果としての押井監督の実写作品が面白いかどうかは、
アニメ的表現の有無とは関係なく、全く別の話ですけども。


posted by mikikazu at 08:24 | TrackBack(0) | アニメ感想-いろいろ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年08月21日

「苺ましまろ」OVA第1話、見ました。


例によってかなり遅ればせながら、になるん
ですけど、CSのアニメ専門局AT-Xで、「苺ま
しまろ Original Video Animation」

式サイト
)の第1話「けしき。」を放送していた
ので見てみました。
テレビ版はとても満足して視聴出来た記憶が
あって、満足し過ぎて原作を読もうとまでは
思わないのは、あんまり良い子じゃないですね。


作品の出来としては満足出来たんですが、テ
レビ版で唯一未解決というか、気になったま
ま残った問題が、学校での、日本語を話せる
ことを隠している、アナ・コッポラちゃんの状況
だったんですね。
桜木茉莉ちゃん以外のクラスメートと、直接
会話出来ないことで、せっかくの学校生活も
不便というよりは、とても寂しいものであり続
けるんじゃないかなって心配でした。
その問題が今回のOVA第1話で、隠してい
たことを糾弾されることもなく、平和な形でカミ
ングアウトに至ったことには、とても安堵しま
した。アナちゃんが変に意地を張り続けなけ
れば、今後はもっとクラスメイト達とも仲良く
出来そうです。
また逆に考えて、テレビシリーズの結末部に、
このカミングアウトを持ってくると、お話が綺
麗にまとまり過ぎて、ひねり具合が絶妙な「苺
ましまろ」らしくなくなったかも、と感じたり。
らしいといえば、テレビ版最終話でついに逆
襲した筈の笹塚君に対する、先生のイジメが
まだ続いてるのは、ちょっとイヤでした。


個人的に一番受けたのは、初出ではないネタ
だと思うんですけれど、バイトの申し込みを電話
でしている時の、伸恵お姉ちゃんの作り声(笑)。
いや、そういう声も出せるんだっていう。
冒頭でお姉ちゃんが起きたのは昼過ぎだった
のに、サブタイトルの後に美羽ちゃん達が登場
して学校に登校する(つまり朝)……という時間
の流れのおかしさについては、冒頭場面は別の
日だと解釈するのが一番妥当でしょうか。
お姉ちゃんの服装が同じなので混乱してしまい
ますけど、逆にそれだけ、家ではいつもおんな
じようにダラダラしている証拠ということで。
って、かなりひどいこと言ってますね(笑)。
面接は3時って言ってたのに、履歴書にイタズ
ラ書きされたのに気づいたお姉ちゃんが、美羽
ちゃんにメールを送ったのが、お昼ご飯を食べ
ている時だったというのは……、お店側の都合
で面接の時間が繰り上げられたとか、ちょっと
苦しい解説しか出来ませんけれど。


ついにカツアゲ(未遂)にまで至っている、美
羽ちゃんの素行というか行儀の悪さも含めて、
テレビ版と変わらない、OVAだからといってこ
とさらに大事件を起こしたりしない、テレビ版が
好きだった人なら、そのまま楽しめる作品だろ
うと思います。
25分1話のDVDに、6000円を供出出来るア
ニメファンの方はすごいな、とも確かに思いま
すけれど……。


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★いつもご紹介ありがとうです。
改訂部分は、妄想劇場も含めて、うららちゃん
プッシュの文章を増やした辺りですね。
色々なSSを読めるのは嬉しいですし、時間をか
ければそれだけ良いものに仕上がるのですから、
それぞれの作品も、じっくりゆっくり形にしていけ
ばいいと思います。
「ひみつの階段」は、逆になかなか発送の連絡が
こないなーって状態ですけど、楽しみにしてますね。



posted by mikikazu at 08:52 | アニメ感想-いろいろ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年06月22日

「sola」第5話、見ました。


というわけで頑張って、AT-X版で視聴中の
「sola」公式サイト)は、第5話「フリソソグ
ヒカリ」
を見てみました。
冒頭部は、AT-Xでも今週から放送の始まっ
た、「ひぐらしのなく頃に」を間違えて予約して
しまった!?とか一瞬焦りました(笑)。ちなみに
「ひぐらし」の方は、第1話冒頭の1分くらいで
ギブアップしちゃいましたけど。


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この第5話のポイントは、茉莉さんのポニーテ
ール姿が可愛く見えたことですね。あ、あくま
で批評的な意味で、ですけど。だからそう見え
た理由については、客観的な説明が可能です。


第1話からずっと続いていた、僕にとっての、こ
の作品における謎のひとつは、「どうして茉莉さ
んは、室内でも帽子をかぶっているのか」にな
ります。
アニメキャラの場合、他のキャラとの記号的区
別のために、固定された髪型とか服装、アクセ
サリーなんかを与えられることが多いですよね。
現実にそんな髪型・服装は無理でも、ひとつの
わかりやすいキャッチとして機能させるわけで
す。シルエットでもわかる感じで。
ずっと続けている、デザイン・ラインの話とも重
なるのですが、それらのアクセントの幅を決定
するのが、作品の世界観であり、それに基づく
リアリティですよね。
例えば、「大きなリボン」を特徴とするキャラだと、
そのリボンの大きさは、描かれるキャラの頭身
とも合わせて、その世界の中で許される大きさ
がおのずと決まっていきます。
「sola」でも、真名さんの髪留めなんかは、彼女
のキャラクターにふさわしく、そうやって決められ
たサイズだと思います。あれ以上大きかったら、
妹のこよりちゃんのリボンとの、姉の立場として
の対比という意味も含めて、おかしくなると想像
出来るわけです。


茉莉さんの帽子は、では彼女というキャラを描く
にあたって、どれだけ必要なアイテムなんでしょ
うか。
僕自身はずっと、彼女が室内でもぬがない、第
2話ではかぶったまま、料理をしようとまでしてい
る描写に、不自然さを感じていました。
彼女が緊張を解いていない、自分の殻を完全に
外していない象徴なのかもと思いましたが、第4
話の冒頭では、あっさり脱いでいる姿も見せてい
て、よくわからなくなりました。


今話の前半では、帽子をとって、違う髪型である
ポニーテール姿を披露することで、そしてその姿
が可愛く、彼女にとってプラスに描けていたこと
で、彼女のキャラ描写上のリアリティにおいて、
帽子は必要不可欠なものではない、とも示され
ました。帽子という記号がなくても、茉莉さんは
茉莉さんとして、ちゃんと描写出来るのです。
そういう、記号を越えた、生身の女の子の肉体性
が初めて伝わっていたからこそ、茉莉さんを可愛
く感じられたのだと説明出来ます。
だから、ポニーテール姿になれるのなら、室内で
帽子をとっても構わない、と思うのですが、後半
ではまた室内で帽子をかぶり続けていて、???
という気持ちになりました。
なので今は、茉莉さんというキャラを描く上での
リアリティ視点において、混乱がある、というのが
正直なところです。


あと今回は久々に、依人君が写真家の視点から、
「空」について語ってくれていて少し安心もしまし
た。なにしろ第2話以降は、ほとんどカメラにすら
触れていなかった気がしますから。
この作品の結論というのは最初から明白で、「何
故依人君は空の写真を撮るのか」という問いに、
テーマと作劇両面から、答えを与えてあげればよ
いのだと思います。
それで依人君の主人公としてのキャラを立てたの
ですから、答えを与えてあげる義務が、作品には
あります。
拠り所というか、主人公としての最大の武器であ
る「空の写真」と、伝奇アクションをどう有機的に
絡めるかという、シナリオワークの腕の見せ所な
んでしょうね。難しそうですけど……。


次回は、自分がいないのをいいことに、また別の
女の子を家に引っ張り込んでる依人君に対して、
蒼乃お姉ちゃんの怒りが爆発するお話――には
なりそうもないですね。もしあったとしても、恐ろ
しくてそんなの見られそうにないです(笑)。
蒼乃お姉ちゃんは、どうやら茉莉さんのことを
知っているようですが、ということは逆に、茉莉
さんも蒼乃お姉ちゃんを知っているでしょうし、
当然、弟である依人君のことも知っていたと考
えるべきなんでしょうね。
だとしたら、第1話での出会いも、陰謀とまでは
いいませんが、偶然を装った、なんらかの意図が
隠されていたのかもしれません。


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★始まった家庭教師業、お疲れさまです。
でも卒業まで、ということは、これから3年間
続くのだとしたら、確かに大変過ぎるかも。
無理はし過ぎずに、うまく自分の時間を見つけ
られるよう、応援してますね。……とはいえ、
こういう時に自分の無力を痛感します……。


posted by mikikazu at 09:07 | アニメ感想-いろいろ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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