えっと唐突ですけど(笑)、「涼宮ハルヒの憂鬱」
(公式サイト)についての考察を少しだけ。
ええ、「涼宮ハルヒの激奏 イベントレポート」
お疲れさま、ということで。
原作小説は未読なので、テレビアニメ版だけに
絞ってお話を進めさせていただきますね。それ
ゆえの認識不足などありましたら、ごめんなさい。

この作品の魅力については、たくさんの理由が
既に論じられていると思います。もちろん基本
的には、それぞれの人がそれぞれの主観で感
じ取ればいいわけですけど。
で、僕個人が作品を見ていて感じ取ったひとつ
の魅力――というか、語り口として成功した「仕
掛け」が、作中の教室における、キョン君と涼宮
ハルヒさんの席順にあると思います。席替えを
経てなお変わらなかった、キョン君が前で、ハル
ヒさんが後ろ、という位置関係ですね。
これがどうして重要かというと、キョン君がヒロイ
ンであるハルヒさんを見る、向き合うためには、
自分の意志で、彼女の席を振り返らなければな
らないからです。
もし、この席順が逆だったらどうでしょう。
後ろ姿とはいえ、キョン君の視界には常にハル
ヒさんがあって、その存在を、彼の主体的選択
とは関係なく、常に認知しなくてはならない。
「彼女はいつでもそこにいる」のです。
けれど作中の席順だと、「彼女がいつでもそこ
にいる」かどうかは、自分から行動を起こして、
振り返ってみなくては確認出来ない。
これは教室におけるクラスメートという、平等
な立場だからそうなるので、団長とその手下
(笑)という上下関係が明白な部室だと、また
違うのですけれど。部室でむしろ意識されるの
は、ハルヒさん側の視線のありよう、ような気
がします。

この作品のメインの語り口は、キョン君のモノ
ローグに沿った、彼の主観によるものですよね。
原作小説も、彼の一人称であると伝え聞いてい
ます(違ってたらすみません)。
次々降りかかる迷惑な(笑)事態に対して、作品
を成立させるために、ある程度の客観性は保ち
つつも、物語世界を見つめる視点は、彼の思考
と感情の流れを通過したものです。
その視点の向こうに、涼宮ハルヒという人物が
いる――。その意味を、視聴者側は重層的に
受けとめる権利を与えられています。作品を語
る視点と、キョン君個人の視点の2つですね。
ヒロインとしての、あるいは世界構造的な主人
公としての、ハルヒさんというキャラクターを
どう考えるかは、これも個人の自由ですが、彼
女を見つめようとする視点が、「振り返らなくて
はならない」という、キョン君にとっての、ある
程度の主体性を前提にしていることは、その視
点を共有している視聴者側にとっても、とても
大きな意味があります。
感情移入とまではいかなくても、語り口の構造
として、ただ作品世界を観客として受動的に見
つめているのではなく、少なくともハルヒさんに
対しては、キョン君の主体的意志を経由した、
もうひとつ上のレベルの視点が提供されている
と感じていいのですね。
映画制作の中、専属のカメラによって撮影され
ているスター、みたいなものです。
ただしその撮影視点には、「個人的」という性質
が含まれていて、物語の中のキョン君、そして
作品としての「ハルヒ」と、キャラクターであるハ
ルヒさんを見つめる個人としての視聴者が、
より微妙に踏み込んだ心情レベルで、共有が
許されるものになっているのです。
それも全て、キョン君が「振り返る」という主体
的肉体動作を経て、ハルヒさんを見てくれる、
より正確にいうと、彼女との距離を示してくれる
行動があるから、なのですね。
枠を超える手順を踏んで、「そこにいる彼女」を
見つけてくれるから、見る側にも何か、感じるも
のが生まれるのだと思います。

ハルヒさんは、都合よく自分の視界に入り込ん
できてくれるヒロインではなく、自分から見よ
うとしなくては見えない、相対的な距離がある
他人だという現実認知は、アニメという2次元
の閉塞の中に、明確な空気感のようなものを
構築してくれていると思います。それは決して、
優しいだけのものではありませんが。
少なくとも「憂鬱」編においての主題は、キョン
君とハルヒさんという、他人である人間同士の
距離の問題であるとするなら、こういう視点の
配置は、とても理にかなっていると思います。
……これくらいでどうでしょうか。