2009年04月13日

「戦場のヴァルキュリア」第1話評


というわけでこちらでも、「戦場のヴァルキュリア」
(公式サイト)の第1章「戦火の出会い」を見てみま
した。
第1話についての各所の感想を読んでみて、多く
目にしたのが「見ていてイライラする」という表現で、
それは僕も同じでした。物語とキャラクターに感情
移入しようとしても、壁があるという感じで。
どうして僕はそう感じてしまうのか、考えてみました。


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まず先に言っておきたいのは、フィクション作品を
描くためには、現実そのままの描写――物理法則
とか、物事の運び方とかを、必ずしも用いなくても
いい、ということですね。
「戦場のヴァルキュリア」と同じ、戦争を舞台にした
作品として引き合いに出しますが、例えばフランシ
ス・F・コッポラの「地獄の黙示録」(79年)では、キル
ゴア中佐率いる空挺部隊が、ワーグナーを鳴らしな
がら村落に爆撃をするシーンがありますよね。
それを、「実際のベトナム戦争では、音楽を鳴らしな
がら爆撃したりはしなかった」と批判しても、映画批
評としては全く無意味です。
解釈は見た人それぞれですが、評すべきは、その
音楽の使われ方が演出として、シーンに対してどん
な効果をあげていたか、だと思います。
「戦場でワーグナーを鳴らすなんて馬鹿馬鹿しい」と
観客に思われたらそこまでなのですが、結果としての
表現は、そうは思わせないだけの迫力を備えていた
と思います。
現実を、フィクションの表現が凌駕しているんですね。
そうでなければ、わざわざフィクションとして描く意味
がありません。


だから、「戦場のヴァルキュリア」でも、現実にある
軍隊なり戦争なりのリアリティとされているものを、
そのまま引用していなくても、前提としては全然構
わないのです。フィクションなのですから、物語が
伝えようとしている何かを、きちんと提示さえ出来
ていれば、「現実の戦争ではこうだから」なんて批
判を相手にする必要もない。
逆に言うと、「現実の戦争ではこうだから」という批
判が入り込んでしまうとしたら、それは作品の表現
が、現実、あるいは現実とされているものの解釈に
負けている、ということです。


エピソードの後半で、帝国軍の兵士に追われ、アリ
シアとウェルキンがギュンター将軍の屋敷に逃げ込
む場面がありますよね。
帝国軍の兵士に包囲されつつあることを知っていな
がら、2人は外に向けられた窓のある廊下を、しゃが
んだりすることもなく、ごくごく普通に歩いていきます。
当然、それは外から丸見えになりますから、敷地内
に入り込んでいるかもしれない兵士に、見つけてくれ、
撃ってくれと言わんばかりの行動です。


作品の側に、「ここでは別に普通に歩いていてもいい」
という語り口の理論武装が出来ていれば、問題はあ
りません。
例えば、ここが中立国の大使館であるとか、迂闊に攻
撃したら危険なものが置いてあるとかにすれば、敵が
攻撃出来ない理由になります。
あるいは、アリシア達が普通に歩いていても気がつか
ないくらい、帝国軍の間が抜けている、としてもいいで
しょう。
けれど見ている僕が、「ここは窓から身を隠して進まな
いと危ない」と思ってしまうとしたら、やはり作品内では、
「当然見つけたら帝国軍は撃ってくるだろう」というリア
リティが成立していると、僕は感じてしまっているわけで
す。
実際にその後、帝国軍は敷地内に踏み込み、キッチン
の窓のすぐそばにまで来て、イサラに撃たれているわ
けですから、アリシア達が見つけられる可能性は確実
にありました。アリシア達は身を隠しつつ歩くべきだっ
たと、他ならぬ作品自体が証明しているのですね。
そういった、成立してしまっている作品内リアリティに
従ってキャラクターが行動してくれないので、「イライラ」
してしまうのだと思います。
現実と比較してどうこうではなく、作品内のリアリティ
と、キャラクターの言動の整合が取れていないのが、
この第1話の欠陥だと、僕は思いました。




posted by mikikazu at 10:14 | TrackBack(0) | アニメ感想-いろいろ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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