奥付によると2008年12月31日に出版された、「映画
はこうしてつくられる」(伊藤孝一・公野勉・小林義寛
風塵社)は、サンライズ代表取締役社長・内田健二氏
やGDH執行役員副社長兼COO・内田康史氏へのイン
タビューも掲載されているので、当ブログのメイン閲覧
者であるアニメファンの方でも、読まれた人が多いの
ではないかと思います。
その「映画はこうしてつくられる」の、P11からP24に、
「第T章 一九八〇年代以降の日本映画の製作と表
現の変容」と題した、日本大学法学部新聞学科教授で
あるという、伊藤孝一氏の文章が掲載されていました。
内容はタイトル通りに、1980年代以降の日本映画の
状況を解説したものですが、目を通し始めると、僕は強
い既視感をおぼえました。
すぐに思いついて、本棚から取り出したのが、「日本映
画史100年」(2000年 四方田犬彦 集英社新書)に
なります。
この本もタイトル通りに、日本映画の歴史を新書サイ
ズの分量で、入門書的にふりかえった内容なんですけ
ど、伊藤孝一氏の文章のほとんどに、この「日本映画
史100年」のそれと、非常に似通ったものが含まれて
いるんですね。
もちろん、同じ日本映画の歴史を扱った文章なのだか
ら、歴史的事実の解説が重なるということはあるでしょ
う。けれど、伊藤氏の文章・展開自体はそれ以上に、
四方田氏の文章に似過ぎているんですね。
たくさんあるので全ては紹介出来ませんが、いくつか
以下に比較掲載してみるので、それぞれの人で考えて
みてください。
先に引用する黒字の文章が四方田氏の「日本映画史
100年」から、続く赤色の文章が、伊藤氏の「一九八〇
年代以降の日本映画の製作と表現の変容」からになり
ます。
「日本映画について考えようとするとき、われわれが
直面する困難のひとつに、ジャンルとしてのその輪郭
を見定めることが、厳密には不可能ということがある。
この傾向は第二次大戦前の、日本が植民地を所有し
ていた時期からすでに存在していたが、形と意味を変
えて、現在においてますます強くなってきている」
(P14 本文1行目〜4行目)
「日本映画のことを考えようとする際、『日本映画の
定義をどうするかという問題に直面する。ジャンルと
しての輪郭を見定めることが、不可能といわざるをえ
ない。この傾向は、日本が植民地を有していた第二
次大戦前から存在していたが、現在において加速の
度を増している」
(P13 本文1行目〜3行目)
☆
「たとえば戦前に台湾や朝鮮、満州で日本人が制作や
監督をしたフィルムは、はたしてどの程度にまで日本
映画と呼ばれうるのか。崔洋一や李学仁といった在日
韓国人が監督したフィルムはどうなるのか(もしそれが
日本映画ではなく、また在日朝鮮人が主演したフィル
ムさえも日本映画という範疇から排除してしまうなら、
戦後の日本映画史は崩壊してしまうだろう)」
(P14 5行目〜8行目)
「たとえば、戦前に朝鮮、満州、台湾で日本人が製作
や監督した作品は、どの程度まで日本映画と呼べるの
か。崔洋一(『月はどっちにでている』『血と骨』など)や
李学仁(『異邦人の河』『詩雨おばさん』など)といった
在日韓国人が監督した作品はどうなるのか。また、在
日朝鮮人が主演した作品を日本映画から外してしまう
と、戦後の日本映画史は瓦解してしまうのではないだ
ろうか」
(P13 4行目〜7行目)
☆
「だが、その黒澤と塚本晋也の『鉄男』の間には、さら
に広々として昏い深淵が存在している」
(P15 9行目〜10行目)
「黒澤の作品は、デ・シーカの『ウンベルトD』に代表
されるネオレアリスモと、はるかに多くの共通項をもっ
ている。そして塚本の描く悪夢の世界は、スプラッター
ムーヴィーやギーガーの絵画世界を連想させ、われ
われが通常に考えている伝統的な日本から隔絶して
いる」
(P15 12行目〜15行目)
「たとえば、黒澤明の『生きる』と塚本晋也の『鉄男』の
間には、仄暗い深淵が存在している。黒澤の作品は、
デ・シーカの『ウンベルトD』に代表されるようなネオレ
アリスモと多くの共通項をもっている。そして、塚本が
表現する悪夢の世界は、スプラッタームービーやギー
ガーの絵画作品を連想させ、いわゆる伝統的な日本
から隔絶している」
(P13 11行目〜 P14 1行目)
☆
「(略)そこに『日本映画』という統合的な範疇を歴史
的に与えることは、ほとんど無意味のように思われ
る。ここに挙げた三本は日本映画である以前に、世
界映画史における同時代性を優れて体現している
のであって、それを無視して強引にフィルムを国籍
に縛りつけることは、個々の作品の本質を見誤って
しまう危険性がある。日本映画はこの一世紀の間に
かくも大きな変貌をとげたのであり、どの時点に焦点
を当てて論じるかによって、日本映画論は決定的に
違ったものとなるだろう」
(P16 1行目〜6行目)
「この二つの作品は日本映画である前に、世界映画
史における同時代性を体現している。それを無視し
て強引に国籍に縛りつけることは、作品の本質を見
誤る危険性を孕んでいる。
こう考えると、『日本映画』という統合的な範疇を
歴史的に与えることは、あまり意味をもたなくなる。
日本映画はこの一世紀の間に大きく変貌し、どの時
代に焦点をあてて論じるかによって、日本映画論の
差異は決定的になるだろう」
(P14 1行目〜5行目)
☆
「一九八〇年代の日本映画を特徴づけるのは、スタ
ジオシステムがいよいよ機能停止に近付き、映画の
制作・配給・興行においてそのことの影響が顕著に
なったことである」
(P202 1行目〜2行目)
「そして八〇年代の日本映画は、大きな転換期をむか
えた。スタジオシステムが機能停止に近づき、映画の
企画・制作・配給・興行において、その影響が顕著に
なったことである」
(P14 11行目〜12行目)
☆
「松竹・東映・東宝からは、日活のような形で新人監
督は育たなかった。とりわけ松竹は山田洋次の『男は
つらいよ』シリーズを十年一日のように制作するだけ
で、映画的には八〇年代にほとんど見るべき貢献を
していない」
(P203 3行目〜5行目)
「東宝、松竹、東映からは日活のような形で新人監督
は輩出しなかった。松竹は、山田洋次の『男はつらい
よ』シリーズを漫然とつくりつづけるだけで、映画的には
八〇年代に見るべき貢献をしていないといっていい」
(P16 5行目〜7行目)
☆
「プログラム・ピクチャーという形式を曲りなりにも維
持していたのは、ピンク映画の世界である。信じられ
ない低予算と劣悪な条件、さらに批評家たちの蔑視に
もかかわらず、六〇年代よりラディカルな活躍を続け
てきたピンク映画は、八〇年代にも優れた新人監督に
35ミリ処女作を撮らせる機会を与えた」
(P204 1行目〜4行目)
「プログラム・ピクチャーという形式を維持していたの
は、ピンク映画である。信じられないほどの低予算と
劣悪な制作条件と労働条件、そして批評家たちの蔑
視にもかかわらず、若松孝二など六〇年代からラジカ
ルな活躍を続けてきたピンク映画は、八〇年代にも優
れた新人監督に三五_処女作を撮らせる機会を付与
した」
(P16 11行目〜14行目)
☆
「一九九〇年代は日本経済にとって、これまでない不
景気が恒常的に続く時代となった。八〇年代後半に
『バブル景気』と呼ばれた好景気が終わってしまうと、
企業はいっせいに経営規模を縮小し、失業率が増加し
た。加えて九五年は、日本人に後々まで残る心理的ト
ラウマが連続して生じた年であった。神戸で前例のな
い規模での大地震が生じ、オウム真理教が東京の地
下鉄に毒薬を撒いて無差別殺人を企てた。外国人の
不法滞在者は急速に増加した」
(P216 1行目〜5行目)
「一九九〇年代は、日本経済にとって、これまでに体
験したことのない不景気が恒常的に続いた。八〇年
代後半の『バブル』と呼ばれた好景気が終わってしまう
と、企業は一斉に経営規模を縮小し、失業率が増加し
た。さらに九五年は、後々まで残る心理的トラウマが
連続して発生した。神戸で前例のない規模の地震が
発生し、オウム真理教が東京の営団地下鉄(現・東京
メトロ)に毒物を撒いて無差別殺人を企てた。外国人
の不法滞在者が夥しい速さで増加した」
(P19 1行目〜5行目)
「日本映画史100年」の出版は2000年なので、2000
年代の状況について、伊藤氏が綴った部分(P22〜24)
については、当然「日本映画史100年」からの類似は確
認出来ません。
とはいえそれ以外の部分ではほとんど、上記に引用し
た文章のような形での類似が認められます。
同じテーマとはいえ、これだけ文章が似通ってしまう
偶然の可能性が、どれだけあるでしょうか。
もちろん、参考文献としても記載されていません。
「日本映画史100年」の出版元である集英社には連絡
しておきましたので、問題があると判断されたなら、なん
らかの対処がなされるでしょう。