今日は、評論を少しだけです。
僕は基本的に、いわゆるファンサービス描写を
強調したアニメ作品は視聴しないのですけれど、
「ストライクウィッチーズ」(公式サイト)については、
10年近く交流し続けていて、最も信頼出来る方
が楽しんでいると知り、視聴すべきかどうか、煩
悶の日々を半年ほど続けていたんですね。
それにも、もう疲れてきて、一生悩み続けるわけ
にもいかないし、今回アニメNewtypeチャンネル
が第1話を無料配信していると知ったので、覚悟
を決めて、その第1話だけでも見てみることにし
ました。
ストーリーやキャラクターについて、第1話だけで
どうこう評価することはしませんが、特に冒頭の
空中戦闘シーンに集中していた、巷で話題になっ
ているカメラワークに関しては、作中でどう描かれ
ているのか、確認することが出来たと思います。
確かに、驚きではありました。
あくまで個人的見解ですが、それらの描写につい
て考えてみて気づくのは、描写自体の物語的無
意味さの、無意味であるがゆえの、見る側にとっ
ての価値ですね。
映像物語作品というのは、物語という意味に沿っ
た映像を、フレームによって切り取り、観客に提
示するものですよね。撮影し、上映・放送する過
程においては、どうしてそういう映像を選択した
かという、作り手の意図が、常に付随している。
例えば、主人公である女の子の前から撮影して
いるカメラが、彼女の背後から凶器を構えて近寄
ってくる悪人の姿を、肩越しに捉えたシーンがあ
ったとします。
そのカメラの視点は、女の子の視点ではないし、
悪人の視点でもない。女の子に危機が迫っている
という物語的意味を、観客に伝えるための、第3
の視点です。
そこで観客は、「危ない、気づいて!」と女の子の
危機に息をのんでもいいし、「気づかないなんて、
馬鹿だ」と女の子を思ってもいい。それは、観客
側の解釈の自由なんですけれど、少なくとも反応
し、解釈する基点となるだけの、文脈というもの
があるわけです。受け入れるにせよ、拒絶するに
せよ、そこには対象としての意味が必要です。
では、この「ストライクウィッチーズ」における、一
連の描写に、物語的意味はあるでしょうか。
お尻や股間を撮影される、アニメですから描かれ
ることが、例えばストライカーユニットの機能の説
明に不可欠といったような、なんらかの物語的意
味を備えているでしょうか。
この作品の、最も有名なキャッチフレーズは、
「パンツじゃないから恥ずかしくないもん!」です
が、少なくとも作中キャラ達は、自分達の体の部
分が、そういう風にクローズアップされて描かれ
ていることを自覚していませんし、結果として、
「恥ずかしく」感じたりもしていないようです。
どういう風に描かれていようと、彼女達の戦闘そ
れ自体の理解には、なんの影響もないように思い
ますし、描写がなくても、大枠の物語は成立しそう
です。
同じように股間を映し出す映像でも、例えば「スカ
ートめくり」のように、要因としての行為者が描かれ
る場合には、被害者である女の子においても、その
行為に対する反応によって、怒るにせよなんにせよ、
行為者との関係性という、物語的意味が備わります
よね。
けれど、キャラクターとそも無関係な「ストライクウ
ィッチーズ」のカメラ視点からは、そういった意味は
発生しようがありません。
あるのは、画面の外にだけへ向けられた、空白の
文脈です。
空白であるからこそ、観客は、その視点を自分の
ものとして獲得出来る、自分なりの意味を仮託して
受け入れられる、という構造が、この作品に吸引力
を発生させていると思います。
もし、描写に物語的意味が備わっていたなら、
「このことを説明するために、この場面ではお尻
を映さなくてはならないんだな」といった、客観的
解釈という第三者性のクッションを通して受けとめ
ることが出来ますし、少女のお尻や股間の映像を
見ている自分にも、それなりの物語的必然性があ
るからという、エクスキューズが用意出来ます。
エクスキューズなんて必要ない、そのものを見たい
から見たいというのも、それはそれでひとつのスタ
ンスですが。
けれど、そんな物語的意味のない、「ストライク
ウィッチーズ」の場合は、解釈の逃げ場が与えら
れていない。映像と、そういう映像を見ている自
分との関係性を、自分自身でどうにかして構築し
なくてはならない。
違う言い方をすれば、作品のそういう描写を見て
いる自分を、第三者としてではなく、主体的に向
き合っている者として、自分で自己認知しなくては
ならないのです。
これが「プリキュア」シリーズのような作品だと、
本来の視聴者は小さな子供であって、自分はあく
まで脇役に過ぎないという認識が、作品への距離
感を作ってしまうわけですが、「ストライクウィッチー
ズ」の場合の観客は、まさに自分しかいない主役
として、一対一の立場で、作品にまっすぐ向き合う
ことが許されるわけです。
そこで求められる能動性が、作品に対する愛着に
もつながるでしょう。自分は逃げずに、作品を受け
入れたんだ、これが正直な自分なんだという。
第1話の視聴だけでの感想ですが、作品と共に、
それを見ている自分を受け入れられる、自己了解
の心地良さのシステムが、「ストライクウィッチーズ」
という作品の魅力のひとつとして機能していると
思いました。