今日はアニメ評論です。
引き続き、「獣の奏者エリン」(公式サイト)は、第9話
「ハチミツとエリン」を見てみました。
というか、先週土曜日の放送以来、何度か繰り返し
て見ています。
テレビアニメを視聴していて、「これはすごい」と思っ
たのは、本当に久々の経験でしたから。それだけの
質に達していたということです。個人的には、今まで
で最高の出来のお話でした。

登場人物をエリンとジョウンの2人だけという、ミニマム
にまで絞ったこのエピソードの内容は、それぞれの視
点から、2人がお互いのことを知っていく過程を描くも
のでした。
大人と子供ですから、その認識のレベルには、もちろ
ん違いがあります。
全てを失ったエリンにおいては、自分をとりあえず受け
入れてくれる人に、ジョウンがなってくれるかどうかを、
彼の生業である養蜂を通して見ていくのが精一杯です
が、ジョウンの側からは、エリンが持ち備えている知的
好奇心と想像力に基づく、もう少し高い位置からの、
人間理解の視点が向けられています。親を失った子供
だから保護する以上の、エリンという人間に対する興味
ですね。
そういう、それぞれの立場から、少しずつお互いを知っ
ていく、コミュニケーションという過程の材料として利用
されていたのが、養蜂についての解説です。
エリンが何かに気づき、考え、ジョウンが問いを与え、
解説していく。それが何度も繰り返される。その過程そ
のものに意味があるわけです。
考えを練って言葉を発し、相手のそれを受けとめて理
解していくという、人間だから出来るコミュニケーション
の基本的なかたちが、今回の作劇の骨格でした。
変な話、ジョウンがごく普通の会社勤めの人間だった
りしたら(いえ、この世界に会社なんてないかもですけど)、
そんな風に会話を膨らましていくことは出来なかったで
しょうね。
2人だけのアニメのキャラクターによる会話という、お芝
居を持たせるだけの映像のクオリティを終始維持出来
ていたのも、すごかったと思います。ものすごく端的に
ぶっちゃけてしまうなら、ずっとエリンが可愛かったとい
うことでもありますけど(笑)。
だから、エピソードの最後でやっと、2人がお互いの名
前を知るのは、作劇論理的に筋が通っているのです。
その時点にまで、2人はそれなりの日にちを共に過ごし
ているのですから、リアリズムだけでいうと、お互いの
名前を知らないでいるのはおかしいし、第一不便です。
エリンの側からは「おじさん」と呼べばいいわけですが、
ジョウンの側からいつでも「お前」では、困る状況もある
でしょう。
けれど、今回のエピソードの目的が、お互いを知って
いく過程だとするなら、相手の人間をある程度規定もし
てしまう、名前の存在は、棚上げしておいた方が、都合
がいいのです。
この作品世界での、民族性と名前の関係についてはま
だよくわかりませんが、例えば現実世界でも、相手の人
間のファースト・ネームが、「太郎」か「ジョージ」か「ウサ
マ」であるのかで、その人間がどういう人であるのかの
予断は、ある程度生まれてしまいますよね。
エリンとジョウンは、お互いの名前を知らないままでい
たからこそ、そういった予断の介入しない、そのままの
人間性だけを見ていくことが出来た、という証明のため
に、名前の名乗りは最後まで取って置かれたわけです。
逆に、お互いの名前を先に知っていた場合の、今回の
お話のやりとりを想像してみればいいでしょう。なんとな
く、プレーンな感じが削がれると思いませんか?
サブタイトル前の、エリンが目覚めた時のシーンでは、
エリンはジョウンの冗談に具体的な言葉を返せず、ただ
驚き照れるだけでしたが、エピソードの最後では、きち
んと自分の意思を言葉にして、ジョウンにお願い出来る
までになっている。その変化と成長の対比は明確です。
僕個人的にも、頭がいいキャラが好きだから、エリンは
好ましいということに合わせて、作劇の構造それ自体に、
ちゃんとした論理性が備わっているこの作品は、とても
お気に入りになってきました。毎週、こんな作品が見ら
れるんだという幸福に浸っています。
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