映画評論家/特殊翻訳家であるという、柳下毅一郎氏
(公式ブログ)の評論集「シネマ・ハント」という本に目を
通していたんですね。
その中に、韓国映画「火山高」(01年 監督キム・テギュ
ン)を論じた項があり(P136〜137)、「この映画は、日
本で作られるべきだった。」と題されていました。
僕個人は同映画を未見ですけれど、柳下氏の主張は、
漫画的表現にあふれたこういう映画は、まず漫画大国
である日本で作られるべきなのに、何故か日本では実
写映画において、漫画・アニメ的表現は積極的に用い
られてはいない、というものだと思います。
「火山高」の日本での公開は2002年12月で、5年以上
の前のことですから、それ以降状況は大きく変わって
いるかもしれないし、いないかもしれません。
ともあれ、「もちろん、日本でも漫画はいくらも映画化
されている。不思議なことに漫画的な表現を積極的に
使おうとする映画はない」「世界に冠たるアニメ大国日
本において、なぜか誰もアニメ的な映像表現を映画に
活用しようとはしない」という柳下氏の主張を、2002年
時点での事実だと仮にすると、その理由として、どんな
ものが想像出来るのか、考えてみます。
予算とか技術的なことは別にして、一番最初に思い浮
かぶのは、漫画的・アニメ的表現を見たければ、漫画や
アニメを見ればいいから、になるでしょうか。
漫画的・アニメ的表現が最大限に機能するのは、やは
り漫画やアニメ作品においてですし、それを世界で最新
・最高レベルで享受出来る立場に、日本の消費者はい
るわけですから、ことさら実写映画に、漫画的・アニメ的
表現を強く求める理由がないという、観客の側のニーズ
の欠如ですね。
漫画・アニメを原作とした日本の実写作品に対する一
般観客側のニーズは、「あの人がこの役を」というキャス
ティングなどの、原作にはない、映像表現とは別のもの
に対する方が、まず強い気がします。
一方でハリウッドでの実写化はありがたがるのは、その
映像技術力と予算の大きさに対する、期待と幻想がある
からでしょう。
でもまあ正直、「日本映画」という大枠のくくりで、どうこ
うすべきという意見を発するつもりは、僕個人には全然
なかったりします。
そのシーンを演出するために、漫画的・アニメ的映像表
現は必要なのかどうかという、個々の作品レベルでの
作り手の判断、そして観客の反応以上のものを、手段の
解説として求めません。
だから「押井守のようにアニメ映画で世界中に影響を与
えた人物ですら、実写映画を作るとアニメ的映像表現を
避けてしまう」という柳下氏の言葉がありますが、押井監
督にしてみれば、アニメ的表現はアニメ作品でやればい
いのだし、実写作品にアニメ的表現がないのは、それを
用いる文脈的理由がない、というだけのことだと思います。
結果としての押井監督の実写作品が面白いかどうかは、
アニメ的表現の有無とは関係なく、全く別の話ですけども。